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勝持寺-その1

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大原野神社から勝持寺(花の寺)へは2~3分山道を進みます。
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しばらく進むと鳥居があり、橋を渡ると直ぐに勝持寺の参道に合流します。
仁王門が参道の下方に見えますが、参道を進みます。
勝持寺まで400mとの立て札がありますが、緩い上り坂です。
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途中に勝持寺に付属した小寺院跡の石塁が残されています。
このような小寺院は多数存在していたようですが、
平成22年から24年にかけて第二外環状道路の建設工事に
先がけた発掘調査が行われました。
その結果、鎌倉時代から室町時代の複数の小寺院跡が発掘され、
建物・井戸・石塁・石垣などが見つかりました。
この場所に保存されている石塁の一部は、ここから南へ約60mの地点で
発見されたものが移築されました。
この石塁は、室町時代に勝持寺境内の子院の区画施設として作られた
石積みの塀の一部です。
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参道の突き当たりは直角に曲がっています。
左側、竹垣の向こうに冴野(さえの)の沼があります。
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角を曲がると南門が見えます。
勝持寺は、正式には小塩山大原院勝持寺と称し、花の寺とも呼ばれています。
寺伝では、創建は白鳳8年(679)に天武天皇の勅命により役の行者が開基しました。
延暦10年(791)、桓武天皇最澄に命じ堂塔伽藍を再建し、
最澄自らが薬師瑠璃光如来を彫って本尊としました。
日光・月光両菩薩と十二神将、毘沙門天が安置されました。
承和5年(838)任明天皇の勅命により塔頭49院が建立されました。
任寿年間(851~854)に文徳天皇の帰依により、住持で大原野神社別当職であった
仏陀上人によって再興され、大原野春日社の供養寺としました。
当初、大原寺と呼ばれていましたが、
寺号を「大原院勝持寺」と改めたといわれています。
平安時代の保延6年(1140)、鳥羽上皇に仕えていた佐藤兵衛義清が勝持寺で出家し、西行と名を改めて庵を結びました。
一株の桜を植えたことから、「花の寺」と呼ばれるようになりました。
その後、応仁・文明の乱により、仁王門以外すべて焼失し、以後衰微しました。
安土・桃山時代の天正年間(1573~1592)に織田、豊臣の勧進により再興され、
仏殿が再建され本尊が安置されました。
江戸時代には、桂昌院の寄進により修復が行われています。
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南門をくぐった右側に、まだ新しそうな十三重石塔が建っています。
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受付で拝観料400円を支払い、小さな門をくぐって阿弥陀堂へと向かいます。
阿弥陀堂は、ガラス戸越しに堂内が見られますが、撮影は禁止されています。
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阿弥陀堂の左側の廊下には、昔の消火用のポンプが置かれています。
「火の用心」を強く訴えているような気がします。
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阿弥陀堂の横には、駕籠が...
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阿弥陀堂の裏側には、滝行場の跡らしき所が見受けられます。
現在でも水がチョロチョロですが落ちています。
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阿弥陀堂の正面に戻ります。
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阿弥陀堂の廊下には賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)の像が置かれています。
本堂の外に置かれるのが一般的だそうで、禅宗では食堂に置かれたりもします。
賓頭盧尊者は十六羅漢の第一に挙げられ、博識であり慈悲深く十善を尊重し、
神通力を持った人物とされています。
「諸病悉除衆苦代受(しょびょう・しつじょ・しゅうく・だいじゅ)」
なでぼとけの別名を持つこの仏様は、心身の病んでいるところと、
同じところを撫でて、一心にお参りすると病が治るという
ご利益があります。
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廊下の右側には半鐘が吊り下げられています。
廊下を渡って瑠璃光殿に向かいます。
続く

勝持寺から願徳寺へ

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瑠璃光殿は、宝物庫で撮影は禁止されていますが、重要文化財に指定されている
仏像を間近で拝見することができます。
扉を開けると自動的に照明が点灯し、堂内は空調されていて涼しく、
静かな時を過ごせます。
正面に本尊である薬師如来像が安置されています。
薬師如来像は、像高85.1cmで鎌倉時代の作とされ、
左手に薬壺(やっこ)を持ち、右手で薬を摘み取ろうとする
珍しい姿をされています。
薬師如来像の手前には、像高9.1cmの小さな薬師如来像が
ガラスケースに収められています。
この像は、本尊の胎内から発見された平安時代作とされる小仏です。
前面には、鎌倉時代作の像高120cmの日光・月光両菩薩像が配されています。
本尊の左右には、鎌倉時代作の十二神将が威圧的な顔立ちで本尊を護衛しています。
右側に、「勝持寺」の額が置かれています。
この額は延長5年(927)、醍醐天皇の勅により小野道風によって納められました。
左側には、像高55cmで室町時代作の西行法師像が安置されています。
左右には像高3mの金剛力士像が睨みを利かせています。
鎌倉時代の弘安8年(1285)作で、仁王門に安置されていたものが遷されました。
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阿弥陀堂の前の石段を下ると正面に鐘楼があります。
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鐘楼の横に西行桜が植えられています。
西行が植えた八重桜ですが、現在の桜の木は三代目だそうです。
境内には、桜ヶ丘と呼ばれる場所も在り、約100本の数種類の桜が植えられ、
また同数のもみじが自生しています。
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西行桜の背後に九重石塔が建っています。
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石塔から冴野(さえの)の沼へと下ることができます。
昔は歌にも詠まれる趣のある沼だったようですが、
今はその風情が失われているように感じます。
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不動堂に上がる石段の下、小さな池の奥に鏡石が在ります。
鏡石は、西行が勝持寺で出家し、この石を鏡の代わりに使って
頭を剃ったと伝わります。
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鏡石の前から仰ぎ見る不動堂は、偉容さを感じさせます。
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石段を上がって不動堂に向かいます。
不動堂は、平安時代に空海が、眼病に悩む人のために、
不動明王に病魔退散を祈願したとされる所に建っています。
石仏の不動明王を刻み、岩窟に安置されています。
堂内右側には愛染明王が安置されています。
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不動堂の左側から裏側に廻り込むと、岩の中に不動明王が安置されています。
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不動堂前の石段を下って、右側に進むと小さな池の中に
石の観音像が置かれています。
この観音像は魚籃観音(ぎょらんかんのん)で、魚籃とは魚を入れる籠のことです。
組み合わせた手に籠を持っています。
願徳寺へ向かいます。
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願徳寺は、勝持寺に隣接しているのですが、
入口へは寺を廻り込んで狭い石段を上った所にあります。
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願徳寺の山号は仏華林山(ぶっかりんざん)で、
院号は宝菩提院(ほうぼだいいん)と称します。
飛鳥時代の白鳳8年(679)に向日市寺戸に創建されました。
現在地には、昭和48年に移転して本堂などが再建されました。
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インターホンを押して中に入り、拝観料(400円)を払うと、
本堂の鉄の扉を開けてもらえます。
堂内には、延長された照明のスイッチと扇風機が置かれていて、自分で点灯します。
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現在の本尊は如意輪観音半跏像で、像高88.2cm、平安時代作の国宝です。
向日市文化資料館で大きな写真見て感動を受けてから、
ず~っと逢いたかった美しい仏像です。
左手は施無畏(せむい)の印、衆生の恐れの心を取り去り、
救い出そうとする慈しみに溢れ、右手は与願の印で、願いを叶えてくれるという。
右隣に安置されている薬師瑠璃光如来は、平安時代後期の作で
国の重要文化財に指定されています。
立像で像高は110.3cmです。
薬師瑠璃光如来は、東方浄瑠璃世界におられ、
瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされています。
左手に薬壺を持ち、体の病気から心の病まで癒されそうな、
藤原時代のやさしい顔立ちをされています。
左側に安置されている聖徳太子二歳像は、
鎌倉時代の作で京都府の文化財に指定されています。
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境内には何故か六世紀中頃の石棺が置かれていました。
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「宝菩提院」と刻銘された石灯籠は、基礎と竿の部分が少しずれています。
これは平成7年に発生した阪神・淡路大震災によるもので、
我が家でも食器棚が窓から約10cm並行移動しました。
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勝持寺の参道まで戻り、参道を下って仁王門へ向かいます。
仁王門は、仏陀上人よって再興された仁寿年間に再建されたもので、
応仁文明の乱による類焼を免れました。
現在の勝持寺に残る最も古い建物ですが、しっかりと建っていて、
存在感を示しています。
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ここに安置されていた鎌倉時代の仁王像は、瑠璃光殿に保存されていますが、
現在代役を務めている仁王像は痛々しく見えます。
阿形像の手の先は無く、吽形(うんぎょう)像にも傷みが目立ち、
これでは仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての役目が果たせるのか
疑問に思えてきます。
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参道の往復から勝持寺の境内で、顔の周りを飛び交う小さな虫に悩まされました。
気を取り直し正法寺(しょうぼうじ)へ向かいます。
続く



正法寺-その1

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正法寺(しょうぼうじ)へは、大原野神社の一の鳥居から少し下った所を
右に曲がり、社家川に架かる朱色の極楽橋を渡って進みます。
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「石の寺」とも呼ばれ、入口から大きな岩できれいに作庭されています。
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社家川の上流方向に京都第二外環状道路が見えます。
道路は境内付近を通りますが、景観を配慮してトンネルが掘られ、
境内からは道路も見えないし騒音が聞こえることもありません。
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参道の緩い坂道を上った所に春日不動尊のお堂がありますが、
参道をまっすぐに進みます。
お寺を通り過ぎた所に千原池があります。
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池には睡蓮の花が咲いています。
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お寺の塀に沿って戻ります。
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本堂の前に門が在りますが、ここからは入ることはできません。
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本堂を正面に見ることができます。
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更に塀に沿って戻ります。
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もう一つの門から入り、受付で300円を納めて本堂へと向かいます。
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本堂前の石庭
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庭の手入れが行われていて、大手水鉢の背後に脚立が置かれていますが、
配慮されているのか、滞在中に作業の音は聞こえませんでした。
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本堂へ上がります。
寺伝では、天平勝宝年間(749~757)に鑑真和上と共に来日した、
高弟の一人である智威(ちい)が当地で隠棲し、修行の場としました。
そしてここを春日禅坊と名づけ、それがここにある春日明神祠の前身です。
最澄は当初、智威を師とし、延暦10年(791)、禅坊跡に大原寺を建立しました。
しかし、応仁・文明の乱で焼失、江戸時代の元和元年(1615)に、
恵雲律師、徴円律師により正法寺として再興されました。
本堂再建の際に、焼け残った部材の一部が再利用されました。
その後、桂昌院の帰依を受けて徳川家の祈願所となりました。

本尊は、聖観音菩薩立像です。
平安時代の弘仁2年(811)に嵯峨天皇からに乙訓寺の別当に任じられた空海は、
頻繁に正法寺を訪れ、42歳の厄除に自ら聖観音菩薩立像を刻んだと伝わります。
しかし、内陣の中央に安置されているのは、三面千手観世音菩薩立像で、
重要文化財に指定されているものです。
顔三面と頭上に23面の化仏(けぶつ)を頂いた、ちょっと珍しい観音様だそうです。
人々の救済のために、あらゆる方向に目を配っています。
左右の顔は、過去も未来にも目を配ろうという意味があります。
この観音像は、鎌倉時代初期の作で、かって九品寺に安置されていたものです。
洛西観音霊場番外札所の本尊になっています。

三面千手観世音菩薩立像の右側に聖観音菩薩立像、
左側に阿弥陀如来立像が安置されています。
延命地蔵尊は、南北朝時代の貞観年間(1345~1349)作とされています。
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手前には、五鈷杵(ごこしょ)が置かれています。
五鈷杵は金剛杵の一種で、金剛杵は人間の心の中の煩悩をうち砕き
本来の仏性をひきだすための法具とされています。
五鈷杵は金剛杵の中でも最重要視され、五鈷は五智に通ずるといわれています。
心をもって五鈷杵を撫ぜれば、身にまつわる諸々の
因縁や諸悪運を防ぐとされています。
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本堂に入った左側には、薬師如来像が安置されています。
開山智威大徳は当地に隠棲して薬師如来を祀りました。
西国薬師第41番霊場の本尊になっています。
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本堂から宝生殿へと移動します。
走り大黒天が安置されています。
大黒天は、最澄が日本に伝え、比叡山に祀ったのが最初で、
福徳の神とされています。
走り大黒天は江戸時代の作で、一刻も早く福を授けようと
走っている姿をされています。
京都六大黒天霊場第三番の本尊です。
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宝生殿の前は、東山連峰を借景とした宝生苑と呼ばれる庭園が拡がります。
遠くに、連峰南端の音羽山、千頭岳、稲荷山などが望めますが、
手前の町並みが風景を壊しています。
縁側に座ると開放感があり、心地良い風が暑さを感じさせません。
右手前には、池が配されていて、小さな滝から落ちる流れの音と
小鳥のさえずり以外に雑音はありません。
橋の傍ら、岩と生垣で亀に見えます。
向こうの岩は、ライオンの顔のように見えます。
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石庭には、蛙や亀・もぐらから象や獅子、そしてペンギン・オウムなど
15種の動物に見立てられた16個の大小の岩が配置されています。
総重量200tにもなり、説明図と見比べて「なるほど」と思うものもあれば、
「...」と首をかしげるものもあります。
宝生殿の南側からは、先ほどの千原池も望まれます。
「当正法寺はもとより清寂を尊び、修禅三昧の境を期し、
いわゆる俗世間から離れた寺院であることを本願としている。」
とHPに記載されている通り、時が経つのを忘れ、
心身共にリフレッシュされていくのが解ります。

書院へ向かいます。
続く

正法寺-その2

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書院・床の間には、掛け軸の枠が掛けられ、外の景色を取り込んでいます。
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書院・大広間の襖絵は、大原野生まれの現代の日本画家・西井佐和子氏によって
描かれました。
「西山賛歌」と題され、西山の四季の風景と草花が41面に描かれています。
病をおして最後の17枚を書き終えた3日後に息を引き取られ、
この襖絵が遺作となりました。
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ガラス戸の向こう、石段の上が春日禅坊跡と思われます。
歳をとられた智威大徳は、春日禅坊にこもり文殊菩薩の三昧境に入りました。
智威大徳には老翁が仕え、食事や身のまわりやの世話を行っていました。
死を悟った智威大徳は、禅坊の奥にある石窟で、坐禅をしながら入定されました。
その時以来、老翁も姿を消し、ただ老翁に従っていた白狐だけが
その石窟の前に控えていました。
当時の人々は、境内に「狐王社」と名付けた小さな祠を建て、
祀るようになりました。
春日禅坊も、その後の応仁・文明の乱で焼失し、
昭和59年に春日稲荷明神社が再建されました。

不動堂へ向かいます。
不動明王は、空海が唐より密教を持ち帰った際に、その図像が持ち込まれました。
ウィキペディアでは、次のように解説されています。
『密教では三輪身といって、一つの「ほとけ」が「自性輪身」
(じしょうりんじん)、「正法輪身」(しょうぼうりんじん)、
「教令輪身」(きょうりょうりんじん)という3つの姿で現れるとする。
「自性輪身」(如来)は、宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、「正法輪身」(菩薩)は、宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指す。これらに対し「教令輪身」は、仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、
仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、
外道に進もうとする者はしょっ引いて内道に戻すなど、
極めて積極的な介入を行う姿である。
不動明王は大日如来の教令輪身とされる。
煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。
また、密教経典によれば、不動明王とは釈迦が悟りを開いた菩提樹下の坐禅中に
煩悩を焼きつくしている姿だとしている。
釈迦が成道の修行の末、悟りを開くために「我、悟りを開くまではこの場を立たず」と決心して菩提樹の下に座した時、世界中の魔王が釈迦を挫折させようと押し寄せ、釈迦に問答を挑んだり、千人の少女に誘惑させたりしたところ、
釈迦は穏やかな表情のまま降魔の印を静かに結び、魔王群をたちまちに説破し、
超力で降伏したと伝えられるが、不動明王はその際の釈迦の内証を表現した姿
であるとも伝えられる。』
自分を振り返ってみると、「煩悩を抱える最も救い難い衆生」だと思われ、
力ずくででも救われたいと願いました。
不動堂には、室町時代作の愛染明王も安置されています。
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本堂から出て受付前まで戻り、左側に行くと水子地蔵尊が立っています。
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不動堂を横側からが望むことができます
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龍の手水舎まで戻りました。
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手水舎の横に清め不動尊があり、「不動真言を三度唱えて、
水を掛けてから左上の不動堂にお参りください」と記されています。
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不動堂への通路に鼓動不動があります。
耳を澄ますと鼓動が聞こえます。
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不動堂で改めてお参りし、お堂の右側、春日稲荷へと移動します。
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春日稲荷から不動堂前の石段を仁王像に見送られながら下ります。
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京都市の文化財に指定されている正法寺遍照塔(へんじょうとう)へと向かいます。
遍照塔は、明治41年(1908)に日露戦争の戦没者慰霊のため、
京都市東山区にある高台寺の境内に建立され、
当初は忠魂堂と称されていました。
六角二重塔で、下層の円柱は飛鳥時代から平安時代初期の「胴張り」、
蟇股(かえるまた)」は平安時代後期から室町時代以前
に見られる様式です。
上層・高欄(こうらん)の斗束(とづか)は下の広がった撥形(ばちがた)で、
奈良時代後期まで違例が認められる組高欄に範がとられています。
この塔は平成22年、当地に移築されました。
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塔を左に移動すると、奈良の大仏と同じ、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)
の石像があり、梵字状に花の植え替えが行われていました。
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更に左に移動した所には不動明王が、矜羯羅童子(こんがらどうじ-右)と
制多迦童子(せいたかどうじ-左)を両脇に従えて立っています。
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正法寺は、平成21年より中興開山400年を記念して、
境内の整備事業が行われています。
終了後にもう一度訪れたいと思います。

大原野は一旦中断して、柳谷観音・楊谷寺へ向かいます。
続く

水無瀬の滝~水無瀬神宮

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JR山崎駅から西国街道を経て、府道734線へと右折して、
JRの高架をくぐって二手に分かれている名神高速道路の間の上り坂を登ります。
登りきった所に「天王山断層露頭」の案内板が立っています。
断層露頭とは、断層が地表に表れた所のことで、昭和30年代に建設された
名神高速道路の工事で表れたと解説されています。
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現地には、当時の写真は残されていますが、下を走る高速道路の安全上、
断層面を可視化できる保存はされていないようです。
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案内板から少し下った所に水無瀬の滝への登り口があります。
標識が立っていて、滝まで70mの距離です。
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滝の傍らには、「八大竜王」、「白姫竜王」、「玉竜大神」が祀られています。
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滝の脇にも石仏が置かれています。
古来から和歌にも詠まれるなど情緒ある滝であった一方で、
下流の人々が洪水に恐れていたことが察せられます。
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昨日の雨で水量が増えているのでしょうか?
約20mの落差を勢いよく水が流れ、高速道路の騒音も消されています。
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先ほどの標識まで戻り、東大寺春日神社へ向かいます。
約100mの坂を登った行き止まりのように見える所にポツンと
春日神社があります。
元々この地は、奈良・東大寺の寺領で、今も東大寺の地名が残されています。
奈良繋がりだったのか?藤原氏の影響があったのか?
この地に春日大神が勧請されました。
旧東大寺村の五穀を守護する産土神として創祀されたと伝わりますが、
勧請された後、神官が不在となり、社殿が荒廃して移転を繰り返してきました。
昭和38年に水無瀬の滝の近くに遷されましたが、平成4年に名神高速道路の
拡張工事に抵触し再度の移転となって、高速道横の現在地に遷されました。
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新しく春日造りの社殿を造営、寄進による春日灯篭、鳥居、手水舎、
瀧谷庵と名付けられた休憩所が新設されました。
春日神社の変遷を思い、横を次々と通り過ぎる車の騒音と
夏草が生い茂る様を見ると、なぜか哀れさを感じさせます。
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西国街道まで戻り、水無瀬神宮へと向かいます。
水無瀬神宮は、後鳥羽天皇がこの地に造営した離宮である水無瀬殿が始まりです。
後鳥羽天皇は、建久9年(1198)に土御門天皇に譲位して、上皇として院政を敷き、
承久3年(1221)に承久の乱を起こしました。
上皇は承久の乱で破れ、隠岐に流されそこで崩御しました。
仁治元年(1240)、上皇の遺勅に基づき、藤原信成・親成親子が離宮の旧跡に
御影堂を建立し、上皇を祀りました。
明応3年(1494)、後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、
水無宮の神号を奉じました。
明治時代になって、それまで仏式で祀られたいたものを神式に改め、
水無宮と改称し、土御門天皇順徳天皇の神霊を
配流地から迎えて合祀されました。
明治6年(1873)に官幣中社に、昭和14年(1939)に官幣大社に列格し、
水無瀬神宮と改称されました。
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神門は、桃山時代に作られた薬医門造で、大阪府の重要文化財に指定されています。
また、神門と築地塀は国の登録文化財です。
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この門の向かって右側には石川五右衛門の手形が残されています。
五右衛門が祀られた名刀を盗みに入ろうとして様子を窺っていたが、
神威により門内へも入れず、やむなく立ち去ったときに残した手形とされています。
金網で囲われ、手形と判別するのは困難なように思われます。
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門をくぐると右側に神庫があり、国の登録文化財です。
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神庫の横には、稲荷神社・星阪神社・柿本神社・春日神社が並んでいます。
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拝殿及び幣殿は、国の登録文化財で文化財データベースによると
昭和4年に建立または改築されたようです。
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本殿は、京都御所の旧内侍所の旧材を用いて江戸時代の
寛永年間(1624~1645)に移築されたもので、国の登録文化財です。
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拝殿の隣に建つ客殿は、桃山末期に豊臣秀吉が家臣の福島正則に命じて造営し、
寄進したと伝わり、国の重要文化財に指定されています。
拝殿と客殿の間、奥の方に茶室(燈心亭) があるのですが、
屋根の一部しか見えません。
見学には5名以上の予約が必要です。
後水尾天皇より下賜されたと伝えられる江戸初期の数奇屋風書院で、
国の重要文化財に指定されています。
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手水舎は、大正期のもので国の登録文化財です。
「離宮の水」は、大阪で唯一環境庁に「名水百選」に選ばれ、
現在、水は井戸から汲み上げられて奥の方に蛇口がついていて、
多くの方々が汲みに来られています。

国道171号線を横切り淀川の堤防へと向かいます。
続く


高浜砲台跡~武内神社

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堤防への階段の下に谷崎潤一郎の「蘆刈(あしかり)」
説明板が立っています。
昭和7年に発表されたこの作品の主人公は、水無瀬神宮を訪れ、
水無瀬の港から渡船で中州に渡り、中秋の名月を賞でながら一人日本酒を
ラッパ飲みする。というストーリーで始まっています。
今年の中秋の名月は、9月15日(木)です。
背割堤の先端まで、ビールでも持って行ってみようかと考えています。
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堤防を上がると、河川敷はグラウンドとして整備されていました。
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下流方向に少し進んだ所、この通路の先で宇治川・桂川と
木津川が合流しています。
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堤防を歩いたのですが、大失敗でした。
強い日光を遮ってくれる物は無く、堤防の道は舗装されていて、
その照り返しに体力を奪われ、なんとか高浜砲台跡にたどり着きました。

高浜砲台は、元は淀川河川敷の外島に設置されたのですが、
淀川改修のために壊され、この地に石碑が建てられたそうです。
幕府は、攘夷派が淀川からの進入を防ぐため、慶応2年(1866)に高浜と
対岸の楠葉に砲台(台場)を建設しました。
砲台の規模は、周囲約180m、高さ約2.4mに及ぶ堅固なものとされていました。
慶応4年(1868)元日、徳川慶喜は討薩表を発し、1月2日から3日にかけて
「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上京都封鎖を目的とした
出兵を開始しました。
旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、
会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進行しました。
1月3日、旧幕府軍と新政府軍が鳥羽と伏見で衝突し、
鳥羽・伏見の戦い」の戦端が開かれました。
鳥羽街道では、旧幕府軍の優勢な兵力にもかかわらず新政府軍に前進を阻まれ、
伏見の戦いでは旧幕府軍は敗戦を喫し八幡・橋本・楠葉に逃れ、
橋本陣屋と樟葉台場に兵力・武器を集め最後の防衛線を張りました。
当時、幕命で高浜砲台は津藩が守備に就いていたのですが、
勅使四条隆平(しじょう たかとし)に説得され官軍へ帰順しました。
旧幕府軍は、思いもかけない対岸からの砲撃に戦意を失って総崩れとなり、
淀川を下って大坂へと逃れることになりました。
島本町立歴史文化資料館にはその当時、旧広瀬村の民家に着弾した
砲弾と柱の傷が展示されています。
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高浜砲台跡碑の背後には、薬師堂があります。
薬師如来像が安置されていますが厨子の中に納められていて、
外からは見ることができません。
江戸時代、この地には妙法寺があり、淀川洪水の際に川上より
武内神社付近に漂着した薬師如来像が安置されました。
妙法寺はその後、度々火災や洪水の被害を受け、廃寺となりました。
現在の薬師堂は、昭和39年に建立され、常春寺が管理をしています。
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薬師堂から高浜公会堂を左折した先に、フェンスに囲まれた畑の隅に
「常春寺(じょうしゅんじ)」への道標が立っています。
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フェンス沿いに坂道を下った所に常春寺があります。
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民家と同じような建物ですが、半鐘が下がっています。
常春寺は、臨済宗・大徳寺派の寺院で、山号を長養山と称します。
江戸時代の慶長16年(1611)に創建され、明治41年(1908)に再興されました。
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道標まで戻り、進んだ先に「右・八幡道 左・京道」と刻まれた
道標が立っています。
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進行方向からは左折ですが八幡道の方へ進み、堤防への石段を上ります。
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以前は、ここに高浜渡しや、上流には広瀬渡し、更に上流には山崎渡しなどが、
対岸の樟葉や橋本との交通や流通を支えていました。
又、大阪と京都を繋ぐ重要な水上路でもあったため、
この辺りの港は中継地として活用されたのでしょう。
草が茂る河川敷の広い範囲が、広瀬南遺跡で須恵器の大甕(かめ)をはじめ、
弥生時代から近世にわたる各種の土器が出土しています。
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街道に戻ると「武内神社」への道標があり、示す方向に進みます。
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S字状に曲がりT字路の角の民家に清明社があります。
安倍晴明が祀られているとの事ですが、字は異なっています。
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由来は、晴明が御所へ行く途中、当地に立ち寄り、
ここの井戸水で渇きをいやしたと伝わります。
その由縁でここに社が置かれたものと推察されます。
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清明社から田圃の中を武内神社(たけのうちじんじゃ)へと向かいます。
武内神社は春日神社とも言われ、離宮八幡宮の七十有余の摂社の一でした。
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元は淀川河川敷に鎮座していたのですが、明治時代の淀川改修工事に伴い
この地に遷され、昭和42年、拝殿及び本殿覆屋が築造されました。
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本殿は、コンクリート造りの覆屋の中に納められ、
右に春日大明神、左に武内宿祢を祀られています。
武内宿禰(たけのうちのすくね)は、八幡神と同一視される応神天皇
仕えていたことから、全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに
「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られます。
また武内宿禰は忠臣とされることから、
戦前の日本銀行券の肖像として採用されていました。
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拝殿に向かって右側には「南無堅牢地神碑(なむけんろうじしんひ-右)」、
「夏大禹聖王碑(かだいうせいおうひ-左)」の石碑が建っています。
堅牢地神は大地を堅固に守る神です。
禹王(うおう)は、今から約4千年前、紀元前2070年頃、舜(しゅん)から
王位を禅譲され、中国の史書に記された最古の中央集権国家「夏(か)」を
創始した人物であり、名を「文命(ぶんめい)」と云いました。
黄河の治水に成功し、聖王として称えられ、後に 黄河や長江では治水神として
強い信仰を受ける様になりました。
やがてその信仰は、東アジア全域へと拡がり、日本では鎌倉時代の
安貞2年(1228)に京都鴨川の氾濫時、旧五条大橋(現在の松原橋近く)に初めて
「夏禹廟」がつくられた、という記録があるそうです。
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左側にも石碑が建っているのですが、判読ができません。

島本町立歴史文化資料館へ向かいます。
続く



桜井駅跡

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JR島本駅は、平成20年3月5日に開業されました。
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駅前の左側に島本町立歴史文化資料館があります。
資料館は、駅の開業に伴い平成20年4月12日に開館しました。
休館日の月曜日と年末・年始を除き午前9時30分から午後5時まで開館しています。
資料館の建物は、国史跡桜井駅跡の記念館として
昭和16年に有志により建てられた「麗天館」を改修して使用しており、
平成27年に国の登録有形文化財となっています。
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資料館の敷地には、平成26年に発掘調査された水無瀬離宮の
庭園跡の遺構が移築・復元されています。
この庭園跡は、遣水(やりみず)跡で、水を池に注ぐための施設です。
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駅の右側には、国の史跡に指定された桜井駅跡があります。
古代律令制の成立と共に、中国の律令制に倣い、
国内には官道が張り巡らせられるようになります。
大宝元年(701)に制定された大宝律令と、その後部分改修された養老律令に、
駅制・伝馬制の古代の交通制度が制定されました。
中央政府と地方とを結ぶ駅路が整備され、
諸道の30里(約16km)ごとに駅家(うまや)が置かれました。
駅路は、中央と地方との直接の情報連絡を目的とした路線で、
駅家は、官吏や使者に馬・食糧などを提供する施設です。
駅(中継所)から駅まで情報伝達を行う駅伝制は、
陸上競技の「駅伝」の元となりました。
駅家には駅戸(えきこ)が配置され、駅馬の飼養やその他の駅務に従事しました。
また、駅家には駅田(えきでん)が置かれ、
稲作による財源で維持・管理の費用に充当されました。
しかし、駅戸の負担過重などにより,律令体制の崩壊とともに衰え、
「駅」という言葉自体も「宿」「宿場」などに取って代わられましたが、
制度の思想は江戸時代に整備された五街道制度にも生かされています。

また、この地は楠木正成(くすのき まさしげ)が嫡男正行(まさつら)を
河内国に帰らせ、決別した所でもあります。
戦前の国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた逸話で、
戦前の桜井駅跡周辺には記念品を売る店や食堂がありました。
太平記第十六巻の「正成兵庫に下向の事」では、
正成が数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げ、
死を覚悟し、湊川の戦場に赴く様子が記載されています。
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桜井駅跡が整備されたのは、明治9年に
「楠公訣児之處(なんこうけつじのところ)」の石碑が建てられたのが始まりです。
この碑は駐日英国大使であったハリー・S・パークスが発案し、
当時大阪府権知事の渡辺昇が賛同して自ら筆をとりました。
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碑は西国街道に向かって建てられ、裏面にはパークスによる英文が書かれています。
その訳文は、「忠義の士、楠木正成の勤皇に捧げる。
一外人の碑、彼は1336年、この地において、その子正行と別れ、
湊川の戦いに赴く」
パークスは、18年間駐日大使として在任し、忠臣楠木正成の忠義に、
着目したイギリス人として興味が持たれます。
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明治27年に、「忠義貫乾坤 碑(ちゅうぎげんごんをつらぬくひ)」が
地元有志によって建てられました。
当時は「楠公訣児之處」と並んで玉垣の中に建てられたのですが、
昭和14年、桜井駅跡の拡張工事に伴い、隣に移されました。
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大正2年に「 楠公父子訣別之所 ( なんこうふしけつべつのところ ) 」 碑 の
建碑式が盛大に行われました。
「楠公訣児之處」の碑よりも大きく立派です...。
寄付によって敷地が拡張され、三方を濠で囲われていました。
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更に敷地が拡張され、大正5年に島本村公園に指定され、
大正10年に国の史跡として指定されました。
昭和6年に「 明治天皇御製 」 碑 が建てられました。
明治天皇が、明治31年11月に三島地方での陸軍大演習に行幸の際、
この地で詠まれたものです。
「子わかれの 松のしずくの 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらいのさと」
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楠公父子子別れの石像は、昭和15年に新京阪電鉄(現・阪急電鉄)の
「桜井の駅」前に青葉公園が建設され、
そのシンボルとして子別れの銅像が設置されました。
戦時中に銅像は供出され、コンクリート製で代替され、
戦後に桜井駅跡に移されました。
現在の石像は、平成17年に有志によって寄贈されたものです。
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公園の奥には、手水鉢と屋形が二箇所に設置されています。
元は、大阪府青年の家の入口前にあったものですが、
新駅の開設に伴い青年の家が壊され、現在地に移されました。
桜井駅跡公園の敷地に大阪府青年の家が建てられていたことから、
元々は桜井駅跡公園の出入り口に設置されていたものと推察されます。
屋形の柱に戦前の木製の千社札が三枚残されていることから、
当時は信仰の場であったと考えられています。
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屋形に隣接して「旗立松」の一部が保存されている小屋があります。
楠木父子が訣別をした場所は、幹周り約4.5mの老松の大木のもとと伝わります。
明治30年に松は枯死し、その一部が切り取られ保存されています。
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北側入口の「桜井駅跡」の石碑と、
背後にもう一方の手水鉢と屋形が設置されています。

島本駅の誇線橋を渡り西口に出ます。
続く

島本駅西口~待宵小侍従の墓と顕彰碑

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島本駅の西口から宝幢寺(ほうどうじ)へ向かいます。
宝幢寺は、慶長15年に創建された浄土宗知恩院末寺で、山号を安養山と称します。
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山門を入った左側に地蔵堂があり、延命歯痛止地蔵尊が安置されています。
この地蔵像は、ニチレ・バークシャー工場(現島本高校)の地に安置されていた
のですが、工場建設のため昭和37年に当寺に遷されました。
もう一体は、身代り地蔵でしょうか?詳細は不明です。
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宝幢寺の先に八幡神社があります。
八幡神社には薬師堂があり、若山神社の御旅所となっていました。
明治の神仏分離により薬師堂は宝城庵に遷されました。
明治8年3月に薬師堂の西側にあった八幡社に河原の八幡社、
坂口八幡社が合祀されました。
坂口八幡社の旧地は楠正成がその子正行と訣別の際に、
菊水の旗と矢を納めたことから矢納(やおさめ)神社とも呼ばれていました。
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社殿は昭和49年に新築されました。
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本殿 応神天皇が祀られています。
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本殿の右・奥に祀られている楠木社。
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八幡神社の先で左折して一方通行の道路を進みます。
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道路が左にカーブしている三叉路に補陀山・宝城禅庵の石碑が立っていて、
その先に宝城庵があります。
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宝城庵は、もと天台宗・応塔寺の寮舎でしたが、
天文年間(1532~55)の兵火で焼失しました。
元亀2年(1571)に僧・明岩(みょうがん)が現在地に庵を結び、
宝城庵と称し、禅宗に改宗されました。
その後、寛永年間(1624~43)に僧・栄室(えいしつ)によって再興されました。
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薬師堂の本尊、薬師如来像は、像高は96.5cm、平安時代後期の薬壷を表す
数少ない例として貴重なものとし、島本町の文化財に指定されています。
淀川河中に沈んでいた山崎橋の柱で彫られたと伝わり、
元は八幡神社の地にあった薬師堂に安置されていました。
薬師如来像は、厨子の中に納められていて外からは見えませんが、
事前予約すれば拝観できるそうです。
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鐘楼
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庫裏には半鐘が掛けられています。
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地蔵堂
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先ほどのカーブしている道路まで戻ってカーブの先へ進み、
Y字路を右折してその先を右折して、御所ヶ池の周囲を歩きます。
名神高速道路沿いの、池の中間辺りに待宵小侍従(まちよいこじじゅう)の
墓と顕彰碑があります。
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石段を上った正面に顕彰碑があります。
この碑は慶安3年(1650)に高槻藩主永井直清によって建てられました。
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顕彰碑の右側の隅にひっそりと置かれた水輪。
ず~っと以前は3本の松に包まれるようして墓や碑があり、
その奥に40坪ほどの塚がありました。
大正の頃までは、高さ約90cmの五輪塔が建っていたそうです。
名神高速道路拡幅工事に伴い、平成7年に現在地に移築されましたが、
いつの頃か五輪塔は失われ、水輪一個のみが残されています。

小侍従は、平安時代後期から鎌倉時代の歌人で、
石清水八幡宮護国寺別当光清の娘です。
39歳の頃、夫・藤原伊実(ふじわらのこれざね)と死別した後に
二条天皇に仕えました。
天皇崩御後、同皇后・藤原多子(ふじわら の まさるこ)に仕え、
太皇太后(たいこうたいごう)小侍従と呼ばれるようになりました。
藤原多子は、近衛天皇の皇后、次いで二条天皇の后となり「二代の后」と呼ばれ、
太皇太后(たいこうたいごう)の位を得ました。

また「平家物語」等に記されたエピソードから待宵の小侍従と呼ばれました。
平家物語「待宵の小侍従の沙汰」として、太皇太后多子の「待つ宵と帰る朝とは、
いづれかあはれはまされるぞ」との問いに対して、
即座に「待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは」と
詠んだことで「待宵の小侍従」の名を得たこと、
また背が低いため「小侍従」と呼ばれた旨が記されています。

晩年は出家し、当地・桜井に真如院を建て隠棲したと伝わりますが、
真如院は、応仁の乱の兵火で焼失・廃絶しました。

御所ヶ池を中心とした一帯は桓武天皇の皇子・円満院法親王が
延歴年間(782〜806)に設けた桜井御所跡とされています。
桜井は、大和国桜井から法親王が移住したことに由来して名付けられたようです。
残念ながら、今の御所ヶ池は、フェンスに囲まれた現代の溜池で、
当時を偲ぶことはできません。

小侍従は、兄・清水日向守光重がこの地に住んでいたことから
隠棲したのでしょうが、桜井御所付近には貴族の別荘もあったりして、
結構華やかな余生を送られていたのではないかと思われます。

高速道路沿いに進むと、町役場前の広い通りに出ます。
その通りを左折して若山神社へ向かいます。
続く

若山神社

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昨日は中秋の名月で、京都は朝から曇り空でしたが、
午後3時頃から薄日が射すようになってきました。
男山に登る名月を見たくて、背割堤の先まで行きました。
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西の空は、雲も少なくなっていたのですが、残念ながら東の方は雲が多く、
その隙間からようやく月が見えました。
周囲からは虫の音が聞こえるのですが、
それ以上に川向こうの国道171号線を走る車や、
新幹線の騒音に谷崎潤一郎の世界を偲ぶことはできませんでした。
早々に引き返し、平安時代の観月の宴とは程遠い杯を傾け、
酔いつぶれて寝てしまいました。
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島本町の続きです。
広い通りから「若山神社」への案内板を頼りに左折し、
少し進んで左折した突き当たりに白山神社があります。
神社といっても民家と間違いそうで、
敷地に入って直ぐに見える石の鳥居でやっと神社だと思える所です。
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鳥居の左側には石地蔵が祀られています。
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「御嶽教天道白山分教会」の表札が掛かっていて、
理解し難い佇まいにすごすごと引き返しました。
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大きくカーブして坂道を登った先に若山神社の社標が建っています。
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参道に入った所に1番の番号を付けたツブラジイの巨木が聳えています。
境内には、自生している幹周りが2.5mを超えるツブラジイの巨木42本に
番号が付けられ、大阪府の天然記念物に指定されています。
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急な石段の参道を上り、右にカーブした上に提灯が下がっています。
平坦になった参道には、手前に手水舎があり、
それから左右交互に境内社が祀られています。
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手水舎
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交通社
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皇太神宮
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五社宮 
向かって左から八幡宮、春日社、加茂社、松尾神社、蔵上社。
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天満宮
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太閤道ハイキングコースの方への鳥居をくぐり、
右に行くと恵比寿大神が祀られています。
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峯好大明神
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三好大明神
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白山稲荷神社 
祭神:宇賀御魂神(うか) 
もと百山(ひゃくやま)山頂の稲荷社が遷されました。
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白山稲荷神社の拝殿には、昔の農機具が置かれていました。
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提灯が吊るされた下をくぐり、社殿へと向かいます。
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若山神社は、大宝元年(701)に僧・行基が勅命にて勧請したのが
始まりとされています。
「古木が繁り、鶴が巣を作っている清らかな地があり、
そこの巨木で神体を刻んで祀れ」との御託宣を受けたと伝わります。
二十二社の一社にも数えられ、官幣の制にも連なったと伝わります。
楠木父子訣別の際には、重臣を代わりに参拝させたとたと伝わります。
現在の本殿は文化4年(1807)の改築と記録に残されています。
祭神は当初、牛頭天王(ごずてんのう)で、
素盞鳴命(すさのおのみこと)との神仏習合の神であり、
釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされていました。
このことから、若山神社は牛頭天王社と呼ばれていました。
明治時代に入って神仏分離令により、若山神社に改称され、
祭神も素盞鳴命に改められました。
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若山神社には、聖徳太子像として信仰されてきた神像がありました。
この神像は、像高35.6cm、臂張(ひじはり)は24cm、作者は未詳です。
平安時代後期に制作されたと思われ、島本町の文化財に指定されています。
現在、神像は大阪市立美術館に寄託されています。
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拝殿は昭和46年に造営されました。
拝殿には、サントリーウイスキーの樽が供えられています。
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左側には歴史を感じさせる神輿が置かれています。
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境内の木立の間から、男山が遠望でき、この地の高さが確認できます。
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参道を戻り、手水舎から右に進んだ所に小烏(こからす)神社があります。
大宝元年(701)行基によって水無瀬神宮の北方の地に創建されました。
若山神社が上ノ宮に対して、小烏神社は下ノ宮と呼ばれました。
昭和45年に現在地に移され、若山神社の摂社となりました。
小烏神社から下って行くと、若山神社の参道に合流します。

元来た道を戻り、尺代へ向かいます。
続く

島本町尺代

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若山神社から下ってきて、山中へと向かう上り坂の車道は、歩道はありませんが、
車は滅多に通りません。
やがて下りになって、T字路になり、尺代の集落が一望できます。
尺代は、環境省の「生物多様性保全上重要な里地里山」に指定されています。
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T字路を左折すると車道は右側に大きくカーブして、
ながどり大橋を渡って左折して水無瀬川の上流へ向かいます。
少し進むと細い下り坂の分かれ道があり、そこを下ると水車小屋がありますが、
近くまで行くことはできませんでした。
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水路の木製といも取水口が壊れていて、水が送られず、
水車は使われていないようです。
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記録によると、江戸時代から水車がかかっていて、製油業や線香づくりを
営んでいた他、製粉や製米等も行なわれていたようです。
昭和に入ってからは、使用済バッテリーのエボナイトを粉末にして
再生するようになりましたが、現在は廃業に追い込まれたようです。
木立の奥に水車らしきものが見えます。
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先ほどのハイキングコースまで戻り、上流を目指します。
尺代集落より水無瀬川上流の尺代ダムに至る渓谷は、かつて町の花、
山吹が渓谷を彩っていたので山吹渓谷とよばれるようになりました。
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しかし、少し進むとゲートが閉じられ、「熊出没」や「マムシに注意」の
注意書きがされています。
躊躇していたのですが、上流から降りて来られるグループに出会い、
通行ができることを確認して先へすすみました。
熊やマムシには出会わなかったそうです。
渓谷の河原には大きな岩が見られ、集落から30分余りで乙女の滝に着きます。
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乙女の滝です。
登山道からは木立に邪魔され、滝がよく見えないので、河原に降りましたが、
道が無く少々苦労しました。
滝は、か細い線のような流れから「乙女の滝」と呼ばれています。
その名に恥じない美しい滝です。
この滝を見るための労力や時間が報われた、
そんな充実感を味わうことができました。
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滝から集落に戻ります。
集落の最上段にあるコンクリートの幅1m位の通路を進むと諏訪神社があります。
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コンクリートの通路から石段を上がった所に手水舎があります。
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諏訪神社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)ですが、
何故遠く離れた諏訪大社の祭神が祀られたのか不思議に思います。
寛正2年(1461)に旧釈恩寺山門の東側、尺代の堂の尾に諏訪明神を勧請し、
建立されました。
明治5年に村社に列せられ、明治11年に現在地に遷されました。
1月6日の御頭渡し(まつりごとを司る御頭人の交代)では、
新年の無事と五穀豊穣を祈願して弓射神事(大蛇に見立てた大注連縄の的に
矢を射る)の後、大注連縄で綱引きが行われます。
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本殿
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相殿社
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諏訪明神から下って右に行くと西光寺があります。
創建は、江戸時代の寛文12年(1672)ですが、その後山門を残して全焼しました。
現在の本堂は、享保6年(1721)に古寺を譲り受け再建されたものです。
山号を喜見山と称し、幕末ごろに浄土真宗興正寺派から
本願寺派の末寺になったそうです。
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西光寺から、来た道を戻り、更に先に進み、
「釈恩寺」の石碑の横の石段を上ると上部で直角に曲がっています。
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そこから、諏訪神社が望め、ほぼ同じ高さだと感じることができます。
集落にとってこの二つの高台は重要な場所のように思われます。
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曲がった先で通路は二手に分かれます。
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コンクリートの通路の先は、平坦地になって奥の方にタンクが在ります。
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石段の通路の先には、石灯籠が建っています。
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更に先には「乃木希典・静子夫妻線刻画像碑」が建っています。
画像ではよく見えませんが、実物も見づらく、
帰宅してから調べて判明しました。
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線刻画像碑の奥には「萬霊塔」が建っています。
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萬霊塔の奥は平坦地が開けています。
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よく見ると、礎石のようなものが残されています。
釈恩寺跡は、天平年間(729~48)に行基が、尺代の観音に開基したと伝わります。
その頃は、かなりの大寺であったことが推定されているのですが、
いつのころか現在地に遷されました。
現在の敷地や礎石から想像しても、それ程大きな寺だとは思えません。
何時頃廃寺となったのか?何故「乃木希典・静子夫妻線刻画像碑」が
建てられたのか?本尊であった 十一面観世音菩薩像は現存しているのか?
気になります。
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境内だった所には地蔵が祀られています。
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「鎌位大明神」の扁額が掛かる祠もあります。
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役の行者の石像も安置されていますが、この像は新そうです。

府道734号線に出て、乗願寺へ向かいます。
続く

乗願寺~弥勒谷十三石仏

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府道734号線を先に進むと左に大きくカーブしているのですが、
直進する道路もあります。
直進すると、離合するのも困難なくらい道幅は狭くなりますが、
車の通行は殆どありませんでした。
先に進んだ浄土谷にある集落の外れのような所に乗願寺があります。
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入口の脇に建つ愛宕山の石灯籠と大ほとけと刻まれた石碑。
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乗願寺は、平安時代の天延年間(973~76)に、恵心僧都が阿弥陀仏を刻み、
草庵を結んだのが始まりとされています。
その後の変遷は不明ですが、現在の本堂は江戸時代の寛政3年(1791)に
建立されました。
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境内にある手水鉢
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地蔵尊
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本堂に掛かる扁額
本堂へは自由に入ることができます。
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但し、時々猫が見張り番?をしています。
居眠りしているうちに気付かれないよう入って、戸を閉めなければなりません。
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本尊の阿弥陀如来坐像は、西山の大仏(おおぼとけ)とも呼ばれ、
像高2.8mもあり圧倒されます。
平安時代後期の作とされ、顔立ちが整った美しい仏様で、
しばらく見とれていました。
阿弥陀如来坐像は、京都府の指定文化財ですが、触れることも許されています。
男性は大仏さまの左膝に、女性は右膝に触れて拝し、
現在の幸運が続くように願う場合は右回りに、不運の好転を願う場合は
左回りに大仏の周囲を回ります。
左右は大仏さま側からです。
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阿弥陀如来坐像の右側に、洛西三十三所観音霊場番外札所の本尊である
十一面観音立像が安置されています。
写真がブレてしまったのが残念です。
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左側には、法然上人の木像が安置されています。
静かなお堂で、仏様を独り占めにでき、悠々の時を過ごせます。
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乗願寺を出て直ぐの所に御谷神社の石の鳥居が見えます。
鳥居の先端は、隣の小屋に刺さっています。
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参拝する人も無いのか参道にクモが巣を張っていました。
御谷神社の創祀沿革はあきらかではありませんが、
平安時代の延喜式神名帳に比定されています。
鎌倉時代~室町時代以降、廃絶したとみられていますが、
安土・桃山時代~江戸時代に、五社神社と称し、浄土谷の産土神とされました。
五社神社とは石清水八幡宮・春日大社・稲荷大社・上賀茂神社・
下賀茂神社を祀ったと思われます。
明治になって式内社の御谷神社と改められました。
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本殿は覆屋に納められています。
天児屋根命(あめのこやねのみこと)・応神天皇別雷神(わけいかづちのかみ)・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が祀られています。
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車道に戻って先に進むと、柳谷通に合流します。
その合流点に弥勒谷十三石仏があり、死者の冥福と極楽往生が祈願されました。
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十三仏とは、江戸時代になってから日本で考えられた、追善菩提のために、
初七日から三十三回忌までの十三仏事に当てられた仏のことです。
しかし、どの石仏がどの仏に該当するのか?
判別はできませんでした。

柳谷観音へ向かいます。
ここから上り坂が更にきつくなります。
続く

揚谷寺(柳谷観音)-その1

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柳谷観音前の柳谷通には石灯籠が並んでいます。
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道路から山門まで石畳の参道が一直線に伸びています。
毎月17日は揚谷寺の縁日で、参道には露店が出ています。
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柳谷観音は、正式には揚谷寺(ようこくじ)で揚は訓読みすると
「やなぎ」で一般的な柳が使われて通称で柳谷観音と呼ばれ、
新西国霊場の第17番札所に指定されています。
揚谷寺は、平安時代の大同元年(806)に清水寺を開山された
第一世延鎮僧都により開創されました。
創建に際して伝承が残されています。
「延鎮僧都は、夢の中に観音菩薩が現れ『西山にて生身の観音様に出会うこと
ができる』と告げられました。
清水寺からこの西山に入り、柳生い茂る渓谷の岩上に
生身の観音様を見つけられました。
その観音様が本尊の十一面千手千眼観世音菩薩であった」と伝わっています。
延鎮僧都の命日が17日であることから、17日が縁日とされ、
本尊の特別開帳などが行われます。
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山門への石段を上ります。
17段上った所に少し開けた中段があり、右側には昔、
水行が行われていた滝口があります。
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左側には不動明王像が建っています。
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石垣の中にも石像が祀られ、その下には役の行者像が置かれています。
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中段から山門までは21段上るのですが、
第二世弘法大師の命日である21日によるものです。
弘法大師もこの地で修行をされた言われ、第二世とされています。
山門前の左側には風神像が、右側に雷神像が建っています。
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山門に掛かる「立願山」の扁額。
山門は江戸時代に再建された四脚門で、かっては勅使門でした。
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天井の梁には方位磁石が奉納されています。
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山門をくぐった先に地蔵菩薩像が立っています。
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門をくぐった左側に手水舎があります。
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手水舎の斜め後ろに鐘楼があります。
朝7時の開門時、正午、閉門時の5時に鐘が撞かれます。
時間に関係なく参拝者も有料(50円)で撞く事ができます。
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書院の玄関、但しここから入ることはできません。
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受付と庫裏。
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庫裏の玄関前に独鈷水(おこうずいへの入口があります。
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通路を奥へ進んだ左側に、弘法大師像が立っていて、
像の前には弘法大師の足形があります。
底には四国八十八ヵ所霊場の砂が敷いてあり、 足形の上に履物を脱いで上がり、
「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と21回唱えれば
健脚になるご利益があるそうです。
更に、その後に独鈷水(おこうずい)を飲むと、ご利益が倍増するそうです。
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弘法大師像から右側に行くと、弘法大師が祀られた祠があります。
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祠の奥に独鈷水のお堂があり、堂内の岩間からは、
今も綺麗な水が湧き出していて、多くの方々が汲みに来られています。
弘仁2年(811)、弘法大師が乙訓寺の別当職であった時に、
度々当山に参拝されていました。
ある時、堂の傍らにある巌窟の溜まり水で眼のつぶれた小猿を抱き、
眼を洗っている親猿の姿を見かけられ、
空海は小猿のために17日間のご祈祷を行いました。
すると満願の日に小猿の目が開き、喜んで山へと帰っていったそうです。
空海は、この不思議な湧き水を、更に17日間の祈祷を施し、
独鈷で持って深く掘り広げ、眼病平癒の霊水に成就されたと伝えられています。
また、江戸時代に第112代霊元天皇が眼病を治癒されたことから、
東京遷都まで天皇家に独鈷水を献上していたと伝えられています。
独鈷水は、本堂の左側に安置されている「びんづるさん」の横に設置された
棚にお供えしてから持ち帰るのが慣わしになっています。
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本堂前にはメグスリの木が植えられています。
申し込みすれば、書院で千眼茶の試飲ができるそうです。
千眼茶とは、揚谷寺で祈祷されたメグスリの木の樹皮を煎じたもので、
かすみ目・疲れ目・二日酔いなどに効果があるそうです。

本堂は江戸時代に再建にされ、土足のまま入ることができます。
堂内では読経が行われていて、迫力のある太鼓の音が堂内に響いています。
その後、般若心経の経文が配られ、全員で唱え、百万遍大数珠繰りが行われました。
数珠繰りの後にまじかで平安時代に作られた本尊を拝むことができます。
本尊は、淀君寄進の厨子に納められていて、毎月の縁日に開帳されています。
本尊である十一面千手千眼観世音菩薩は、平成10年に解体修理が行われ、
像内から鎌倉時代の承元4年 (1210)に納められた
勧進願文や奉加状などが発見されました。
京都府の重要文化財に指定されています。
脇侍には、右隣に勝敵毘沙門天王、左隣に将軍地蔵大菩薩が安置されています。
その左側には、弘法大師像が安置され、
裏側に廻ると本尊を背後からも拝むことができます。
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本堂の左側から回廊を渡って書院へ向かいます。
書院前には、京都府の名勝庭園に指定された浄土苑が築かれています。
江戸時代中期に作庭されたもので、山の斜面に十三仏に見立てられた
立石が配されていますが、実際には17の石が立っているそうです。
手前には池があって、綺麗な錦鯉が優雅に泳いでいます。
書院に座って、本堂から漏れてくる読経を聞きながら庭を眺めていると、
心が洗われそうです。
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書院には、月替わりで寺宝が展示されています。
今月は「兎」の掛け軸で、幕末から明治時代に京都を中心に活躍した絵師、
日本画家である森寛斎によって描かれました。
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書院から回廊の階段を上がったところに上書院(かみしょいん)があります。
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上書院は、普段は非公開ですが、縁日の午前中のみ有料(500円)で
公開されています。
ボランティアガイドの説明を受けることができます。
上書院は、明治時代後期の建物で、かっては高貴な客が通される部屋でした。
上書院の一階の部屋は、平成21年に公開された
映画「日本のいちばん長い日」で、陸軍官舎として使用されました。
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二階は役所広司氏が控えの間として使用され、景色の美しさに感激されたそうです。
「寿」の掛け軸は、
高野山真言宗大僧正・喜多川諦道(きたがわたいどう)師の書によるものです。
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二階からは池を愛でることができ、
楓が赤く染まればより趣のある景色になるでしょう。
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また、屋根瓦の曲線や煙出しなどの風景を楽しむことができます。

奥之院へと向かいます。
続く

揚谷寺(柳谷観音)-その2

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上書院の前で回廊は左に折れ、上書院の裏手へと廻ると
「心琴窟(しんきんくつ)」が設置されています。
水琴窟のことで、音が聞きやすいようにと竹筒が置かれていますが、
竹筒を使わなくても聞こえます。
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水琴窟を過ぎると、回廊の階段が急になり、
右に直角に曲がって更に上ると奥之院に着きます。
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奥之院の本尊も十一面千手千眼観世音菩薩で、
江戸時代に中御門天皇が勅刻されたものです。
奥之院は、洛西観音霊場第10番札所に指定されています。
東山天皇の皇妃新崇賢門院(しんすうけんもんいん・四条の局)は、
度々皇子を出産されましたが、それぞれ幼くしてお亡くなりになりました。
そこで、本尊に祈願したところ、無事皇子(後の中御門天皇)を出産されました。
「無事出産できた暁には観音様をお祀りする」と誓いを立てられていたのですが、
果たすことなく崩御されました。
中御門天皇は、亡き母に代わり本尊の観音像を模して造仏し、
奥之院の本尊として安置されました。
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向かって左側に安置されているのは二十八武衆で、千手観音の眷族です。
千手観音に従って、仏教とその信者を守護する護法善神です。
向かって右には歴代天皇の位牌が安置されています。
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奥之院を出た正面左側に(お堂に向かって右側)に
モリアオガエルが産卵するという小池があります。
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お堂の裏側に廻ると、奥之院の守護神である眼力稲荷が祀られています。
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眼力稲荷社の横には愛染堂があり、愛染明王が祀られています。
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奥之院の正面へ戻ります。
奥之院は、大正元年に建立、大正4年に焼失し、昭和5年に再建されました。
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正面の石段を下ります。
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下った右側に観音請記念碑が建っています。
熱心に掃除をされていました。
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左側に進むと多宝塔が建っています。
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多宝塔から少し下った所に納骨堂があります。
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納骨堂の奥には阿弥陀如来坐像が建てられているのですが、
堂内ではなく外にあるので、光によって降臨されたようにも見えます。
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納骨堂の下方には石仏があります。
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石仏の前からは、本堂を横からが見ることができます。
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右に緩やかにカーブして下って来ると、寺宝庫が見えてきます。
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寺宝庫の先には、無料休憩所があります。
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休憩所内には、「おひよけさま」が祀られています。
四国八十八ヶ所霊場の本尊の模刻仏とされていますが、
判別は困難のように思います。
奥之院での火災の際、堂宇は全焼しましたが、難を逃れたと伝わります。
以来、火災などの災害除けとして信仰を集めています。
無料休憩所は、ハイカーなどにも解放されていて、
グループの方々が昼食を取られていましたので、
露店で赤飯を380円で購入して昼食としました。
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無料休憩所の向かいの阿弥陀堂は、江戸時代の建立で、
以前は念仏堂とも呼ばれていました。
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お堂には、講社の額が掛かっています。
江戸時代の元禄年間(1688~1703)には多くの講社が結成され、
大正時代末期でも322社が存在していました。
檀家を持たない揚谷寺は、講社の人々の信仰によって支えられてきました。
揚谷寺が開放的に感じるのは、その辺に理由があるのかもしれません。
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阿弥陀堂の本尊は、阿弥陀如来坐像で、向かって右に中国の高僧善導大師像、
左には法然上人像が安置されています。
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堂内では、ず~っとご詠歌が唱えられていて神妙な面持ちになります。
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阿弥陀堂の前を左に突き当たった所に地蔵堂があります。
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地蔵堂には親子地蔵が祀られています。
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地蔵堂の隣には、護摩堂があります。
毎年2月17日には、江戸時代より続く採燈大護摩供が行われ、
大峰山より山伏が招かれて祈祷が行なれます。
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護摩堂の左、本堂の脇に中庸門があります。
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門をくぐった先に弁天堂があり、弁財天の前立ちには淀君の人形が祀られています。
淀君は、本堂の本尊を信仰され、厨子などを寄進されたことから、
信者の方から淀君の人形が奉安され祀られるようになったそうです。
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弁天堂の脇に、神徳水(みのりみず)が湧き出し、
諸病平癒・不老長寿の水と言われています。
淀君が、この水で洗顔されたと伝わり、
この水で洗顔して授けられた手拭で拭うと美人になるそうです。
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本堂の裏側に当たる所に伏見稲荷大社・眼力社より勧請された、
正一位眼力稲荷大明神が祀られています。
眼力稲荷社は、当山の鎮守社であり、
眼病や視力回復のご利益があるとされています。
また、心眼・先見の明を授かることから、
商売繁盛や証券取引及び学問向上などにもご利益があるとのことです。

善峯寺へ向かいます。
続く




善峯寺-その2

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無料休憩所の左横の石段を上がり、左に曲がった突き当たりに鐘楼堂があります。
鐘楼堂(つりがね堂)は、貞享3年(1686)に建立されました。
桂昌院が徳川5代将軍綱吉の厄除けのために寄進されたことから、
「厄除けの鐘」と云われています。
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「厄除けの鐘」は撞くことができます。
祈願してから撞き、余韻が静まるまで静かに合掌します。
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鐘楼堂の左横に建つ護摩堂は、元禄5年(1692)に桂昌院により建立されました。
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護摩堂には、本尊の不動明王像を中心に右隣に降三世(ごうざんぜ )明王、
その右隣に金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王。
不動明王像の左側に軍荼利(ぐんだり)明王、
その左隣に大威徳(だいいとく)明王の五大明王が安置されています。
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護摩堂の前から短い石段を、「遊龍の松」の枝に頭をぶつけないように
注意して上ります。
「遊龍の松」は、五葉松で樹齢600年以上、幹周り約1.5m、高さ約2m、
北方向に約24m、西方向に約37m水平に枝を伸ばし、
国の天然記念物に指定されています。
桂昌院によって植えられたと伝わります。
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主幹が地を這うように伸びる巨大な松は、臥龍の遊ぶ様に見えることから、
安政4年(1857)、花山前右大臣家厚公により「遊龍」と名付けられました。
平成6年に松くい虫の被害により、全長50mほどの松が15m余り切断され、
現在は全長37mとなっています。
上の画像は西方向に、その下の画像は北方向に伸びる枝です。
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標石は明治26年、鳥尾中将の書です。
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遊龍の松の前には、国の重要文化財に指定されている多宝塔が建っています。
元和7年(1621)に第28代賢弘法師により再建された
善峯寺に現存する最古の建物です。
本尊は愛染明王で、ガラス越しに拝むことができます。
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多宝塔に隣接して、六角六柱・二重屋根の経堂が建っています。
宝永2年(1705)に桂昌院の寄進により建立され、傅大士(ふだいし)を奉安し、
鉄眼版一切経が納められました。
現在は、祈願成就の絵馬奉納所でもありますが、傅大士像に睨まれているようで、
中に入るには少し勇気が必要かも...
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経堂の左側に、JR東海のCM「そうだ 京都に行こう。」で有名になった
桂昌院が手植えされたと伝わる樹齢300年以上のしだれ桜が植えられています。
この桜はカエデとの合体木で、二本の古木が絡み合った結び木となっています。
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「遊龍の松」を西方向に来ましたが、後戻りして北方向に進み、
開山堂へと向かいます。
開山堂は、貞享2年(1685)に源算上人の廟所として建立されました。
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比叡山が望めるように建てられています。
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開山堂の横には「幸福地蔵」が急な斜面に柱を組んで造られた祠に祀られています。
「自分以外の幸せを願いましょう」と記されています。
ここから白山・桜あじさい苑へと下ることができるのですが、
今は桜もあじさいも咲いていないので、飛ばして十三仏堂へと向かいます。
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十三仏堂は元禄5年(1692)に建立され、手前から護法尊・毘沙門天・弁財天・
十三仏が善峯寺を守護するために祀られています。
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十三仏堂の画像の手前に見える石畳を上った所に桂昌院廟があります。
門に掛かる額には、桂昌院の略歴が記されています。
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門をくぐった左側に宝篋印塔(ほうきょういんとうが建っています。
鎌倉時代に慈鎮和尚により伝教大師筆の法華経が納められています。
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宝篋印塔から石段を上がった所に桂昌院の遺髪を納めた廟所が、
亡くなった宝永2年(1705)に建立されました。
桂昌院は寛永4年(1627)に京都市北区の大徳寺付近の北小路家で誕生され、
北小路家は、後に本庄姓を賜りました。
寛永16年(1639)に御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、
その後家光の側室となり、正保3年(1646)1月に綱吉を産みました。
慶安4年(1651)、家光没後に大奥を離れますが、
延宝8年(1680)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入りました。
元禄15年(1702)2月には女性最高位の従一位の官位を、
賜りましたが宝永2年(1705)6月に79歳で生涯を閉じられました。
桂昌院は、善峯寺以外にも多くの社寺に寄進されました。

十三仏堂まで戻り、奥の石段を上って釈迦堂へと向かいます。
続く

善峯寺-3

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釈迦堂への石段を上って振り返ると、急斜面に建てられた地蔵堂がよくわかります。
幸福地蔵は、約300年前のもので、桂昌院も祈願されたとか...
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釈迦堂の境内は意外と広いです。
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釈迦堂は、比較的新しく明治18年(1885)に建立されました。
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本尊の釈迦如来石仏は源算上人が自ら刻んだと伝わり、
合掌姿の釈迦如来像は日本では他に例が無いと云われています。
当初はここから更に約2km登った釈迦岳の山頂(標高631m)に小堂を建て、
安置されていました。
その後、戦火でお堂は焼失し、石仏は残りましたがお堂は再建されないまま
風雨にさらされていました。
明治になって、当時の住職が釈迦如来の「汝により下山せん」との夢告を受け、
明治11年(1878)に山頂から薬師堂(現在の釈迦堂の地)に遷されました。
像を遷そうとした際に、像から玉の汗が流れ、住職はこの汗と薬湯を合せて
参詣者に供されました。
神経痛や腰痛に薬効があるとされる薬湯は、現在にも受け継がれています。
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釈迦堂から阿弥陀堂へ下ります。
阿弥陀堂は、寛文13年(1673)に建立されました。
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本尊は宝冠阿弥陀如来です。
常行三昧(阿弥陀仏を讃えて極楽往生を願う勤行)道場にて常行堂ともいいます。
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釈迦堂まで戻り、境内の奥から薬師堂への参道に入ります。
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参道に入って正面に稲荷社があり、正一位稲荷大明神が祀られています。
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稲荷社の横には、「善峯寺歴代親王廟」へと上れる参道がありますが、
下りに利用します。
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廟への参道入口には、本坊がありますが
「平成25年より数年間、改修工事が行われていて
秋季菊花期の庭園公開なども行われない」と張り紙されています。
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薬師堂への参道に戻ります。
稲荷社からは上り坂が急になってきます。
下に見える開山堂や地蔵堂から、
短時間でかなり登ってきたのだと感じられます。
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その先で参道は大きくカーブし、その先に「けいしょう殿」があり、
桂昌院像が建てられています。
けいしょう殿は、昭和62年に花山法皇西国札所中興一千年を記念して
建立されました。
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「けいしょう殿」から少し戻って奥の院・薬師堂への石段を上ります。
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薬師堂は、元禄14年(1701)に建立され、
昭和63年現在地に移築されました。
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本尊は薬師如来で、桂昌院出生の由緒により出世薬師如来と云われています。
桂昌院の両親は、善峯寺の薬師如来に祈願して子宝を授かりました。
その子は後に出世して徳川五代将軍の生母桂昌院となったことから
開運出世のご利益を授ける「出世薬師如来」
として信仰されるようになりました。
桂昌院は、元禄11年(1698)に薬師如来に
「たらちを(実父のこと)の 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 
南無薬師仏」との歌を献じています。
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薬師堂裏側の庭園は、蓮華寿院の旧跡とされています。
源算上人は『妙法蓮華経』を一字三礼と6ヶ年無言の行によって写経され、
その地に蓮華寿院を建立されました。
安元2年(1176)、観性法橋は蓮華寿院の傍らに法華堂を建立し、行法を行いました。
天台座主であった慈鎮和尚は、観性法橋の招きにより蓮華寿院に移り住みました。
浄土宗西山派の祖となる証空上人善慧(しょうくうしょうにんぜんえ)も
入寺しました。
以後、青蓮院関係の歴代法親王が、蓮華寿院で晩年を送り、
「西山宮門跡」とか「御所屋敷」と呼ばれました。
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庭園から奥に進むと青蓮院宮廟への参道になります。
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参道の入り口付近には観音像が建っています。
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青蓮院宮廟は、覚快法親王(鳥羽天皇皇子)、道覚法親王(後鳥羽天皇皇子)、
慈道法親王(亀山天皇皇子)、尊円法親王(伏見天皇皇子)、
尊道法親王(後伏見天皇皇子)らの墓があり、宮内庁が管理しています。
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青蓮院宮廟の横には証空上人などの墓があり、一段下がった所には源算上人や
歴代住職・本庄家の墓などがあります。
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親王廟から稲荷社の方に参道を下ります。
狛犬ならぬ狛ライオンが聖地を護っています。
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更に下っていくと青蓮の滝があります。
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青蓮の滝から釈迦堂へと戻り、石段を下って北門に向かいます。
北門の近くには白山社があり白山権現が祀られています。
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北門は回転式の扉で、一旦外に出るとインターホンで通話して、
当日の入山券をカメラに提示しなければなりません。

北門を出て、三鈷寺へ向かいます。
続く


三鈷寺

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善峯寺の北門から三鈷寺の南門へは、平坦な道を歩いて3分足らずの距離です。
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門をくぐった右側に石地蔵が祀られ、その背後にはカリンの木が
実を付けていました。
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庫裏
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華台廟(けたいびょう)

三鈷寺は、平安時代の承保元年(1074)に源算上人が草庵を結び、
自ら阿弥陀像を刻んで本尊とし、北尾往生院と号したのが始まりです。
応保2年(1162)、二祖観性法橋は、自ら浄布を織り、これに佛眼曼荼羅を画いて
本尊とし、左右に釈迦如来像・阿弥陀像を安置しました。
鎌倉時代の建保元年(1213)、証空上人善慧(しょうくうしょうにんぜんえ)は、
ここを不断如法念仏道場とし、三鈷寺と改称しました。
背後にあるカモシカ嶽の三峰が「三鈷杵(さんこしょ)」に似ていることからと
伝わります。
旧三鈷寺は、ここより更に登った山頂近くにあってその跡が残されているそうです。
山門を出て約200m西へ行くと本寺が浄土宗西山派の根本山であるという
後嵯峨天皇宣旨になる碑が建っています。
さらに旧三鈷寺跡へ通ずる道の途中に樹齢八百年からなる
「証空上人逆さ杖の桂の木」の巨木がそびえているそうです。
残念ながら今回は時間の関係で訪れることができませんでした。
証空上人善慧は、法然上人に23年間常随して浄土教の深義に達し、
円頓菩薩戒を相伝した高弟です。
西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の西山三派の祖となり
西山(せいざん)上人とも称されています。
建暦2年(1212)、法然上人が入滅後、三祖であった天台座主大僧正・慈円の譲りを
うけて北尾往生院に入りました。
宝治元年(1247)11月26日、白河遣迎院において71歳で入滅された際は、
門弟達が遺身を三鈷寺で荼毘に付しました。
証空上人善慧に深く帰依された実信房蓮生が華台廟を造って祀りました。
宇都宮頼綱は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武将でしたが、
元久2年(1205)34歳の時、北条時政と牧氏の陰謀に加担したとして
謀反を疑われたため、出家して実信房蓮生と号しました。
出家後は、法然に弟子入り、法然没後は証空上人に師事しました。
出家するも京に住み、京錦小路と嵯峨小倉山の邸宅で風雅の暮らしを送り、
藤原定家と交流し、娘を定家の息子為家に嫁がせています。
文歴2年(1235)頃定家に古今の歌人の色紙染筆を依頼し、
これが小倉百人一首のもととなったと云われています。
しかし、証空上人亡き後は、蓮生は一人三鈷寺にとどまり、供養を続けられました。
建長年中に蓮生が願主となり、華台に塔を造立し観念三昧院と名付け、
不断念仏を始めました。
正元元年(1259)証空上人十三回忌の準備の中、11月12日往生を遂げられ、
遺言により、嫡子の宇都宮泰綱により証空上人の傍らに墓を築き、供養されました。
南北朝時代に、勅願により、天台宗・真言宗・律宗・浄土宗の
四宗兼学となりました。
北朝の貞治1年(1362)に後光厳天皇の論旨により、
三鈷寺は西山流根本地されました。
平安時代から鎌倉時代にかけて寺運は栄えましたが、室町時代になって、
応仁・文明の乱の兵火により本堂と華台廟を残し焼失しました。
その後、三鈷寺は荒廃し、新たに寺領を賜るも再興がならず、
安土桃山時代になって羽柴秀吉によって寺領は没収されました。
江戸時代、善峯寺が復興されたことに伴い、寺域は縮小されてしまい、
天保年間(1830~1844)に三鈷寺は、現在地に移されたそうです。
昭和の時代になってようやく第52祖台龍上人の徳望により、
四宗兼学の西山総本山として独立しました。
平成14年に完了した平成の大修理を経て現在に至っています。
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500円を納めて本堂へ上がることができます。
生憎、当日はご住職が不在で説明を伺うことができませんでした。
手前の華台廟は、江戸時代中期頃に西山国師500回忌時に建て直され、
彩色された西山上人像が祀られています。
三鈷寺が、最も栄えた功労者です。
次の間には金色で来迎印を組まれた、平安時代後期の作とされる
阿弥陀如来坐像が安置されています。
ふっくらと、穏やかな姿をされていて、前に座っていると心から癒されます。
そして、一番奥に本堂があります。
本尊の佛眼曼荼羅は、かつての三鈷寺の壮大な本堂に祀られたものですが、
現在の本堂には納まりきれないため、奈良国立博物館に寄託されています。
現在の本尊は、平安時代・智証大師円珍作と伝わる「金身不動明王」で、
全身がやや古色交じりの金色を呈しています。
「十一面観世音菩薩立像」は古色を呈し、西山上人作とされ、
京都洛西観音霊場第5番札所の本尊です。
「抱止(だきとめ)阿弥陀如来立像」は古色を呈し、左手を胸に置き、
右手を下げた独特の姿をされ、慈覚大師円仁作と伝わります。
この像には伝承が残されています。
宇都宮頼綱は、正真の阿弥陀如来を拝せんと称名念仏していますと、
三尊二十五菩薩を具して現れ、空に帰らんとされる姿に名残り悲しみの余り、
抱止めてみればこの阿弥陀如来であったと云われています。
十一面観世音菩薩像と抱止阿弥陀如来像の間に円光大師(法然上人)の
小像が安置されています。
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客殿
本堂から渡り廊下を経て庫裏に続く客殿へと案内され、
お茶とお菓子をいただきました。
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客殿からの眺めは、江戸時代に書かれた「都名所図会」に
「二大仏七城俯瞰の地」と記されたほどみごとなものです。
比叡山を始めとする東山三十六峯、宇治、木津方面と京都盆地を一望できる
天空の寺です。
「二大仏」とは、京都方広寺と奈良東大寺の大仏のことで、「七城」とは、
二条城、伏見城、淀城、高槻城、大坂城等の京都内外の城を意味しますが、
少々誇大広告であったような気がします。
大阪方面は、天王山の陰に隠れて望むことができません。
今は、暑くも無く、寒くも無く、風は爽やかで心地良く、
静寂を一人味わうことができます。
三鈷寺旧跡へと向かう時間を、ここで費やしてしまいました。
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境内に出ます。
稲荷社の小さな祠があります。
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山道から上がってきた正面です。
「西山善慧上人霊廟」と刻まれた石柱が建ち、
山号「華台山」の扁額が掛かっています。
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かわいい地蔵尊像は、心地の良さに居眠りをしているようにも見えます。
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本堂前の急な石段を下ります。
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傍らのイチョウの木は、銀杏の実をたくさん落とし、石段にも散らばって
いましたので、踏まないように気を付けて下りました。
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石段を下って来ると、道は二手に分かれ、小塩の方へ向かいますが、
ここからは山道になります。
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三鈷寺への入口は、善峯寺のバス停から少し下った所にあります。
看板には、徒歩10分と記されていますが、体力に自信があって
休まずに登った場合の時間だと思われます。
結構、急な坂道が続きますので、下りに利用される方がお勧めです。
バス停に着くと丁度バスが待っていて、無事に帰宅することができました。

次号から京都府久世郡久御山町を巡ります。
続く

久御山町-その1

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京都府久世郡久御山町は、昭和29年(1954)に御牧(みまき)村と佐山村とが合併し、久世郡の「久」と両村からそれぞれ一字を取って久御山町としました。
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久御山町の西部を巡るには、京阪淀駅が便利です。
京阪淀駅から府道宇治・淀線に出て、淀大橋を渡った先、
「淀際目(さいめ)」の信号を右折した先に小さなお堂があります。
Google マップでは「大日如来」と記されていて、偶然に見つけた
この地点が気になって訪ねてみました。
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お堂はガラス戸で、堂内を見ることができ、
金色の大日如来像が二体安置されています。
一体は、大日如来の智慧(ちえ)を象徴する金剛界(こんごうかい)の如来で、
智慧を表わす智拳印(ちけんいん)を結んでいます。
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もう一体は、大日如来の真理面を象徴する胎蔵界(たいぞうかい)の如来で、
最高の悟りを表わす法界定印(ほっかいじょういん)を結んでいます。
大日如来像の左側には、厨子に納められ着色された地蔵菩薩像と、
その左側には地蔵の石仏が安置されています。
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右側には、知恵の菩薩とも評され、人々に知恵を授けてくれる虚空蔵菩薩が
厨子に納まり安置されています。
空海が室戸岬の洞窟 御厨人窟(みくろど)に籠もって、
理解力・記憶力を高めることを祈念する修法である
虚空蔵求聞持法」を修したという。
この洞窟から見える風景は空と海のみで、
ここから「空海」の法名を得たとされています。
右手は掌を見せて下げる与願印(よがんいん)の印相とし
左手に如意宝珠を持つ像容は、求聞持法の本尊とされています。
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このお堂の先、現在は農業倉庫が建てられている場所に、
かってお寺があったそうです。
無住になり、やがて廃寺となったため、地元の方々がここにお堂を建て、
仏像を安置されたそうです。
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大日如来が安置されているお堂から少し戻り、
東方向へと右折した先に若宮八幡宮があります。
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手水舎
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拝殿
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本殿
主祭神は仁徳天皇で、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、
八衢比売神(やちまたひうりのかみ)、久那土神(くなどのかみ)
が祀られています。
明治6年には、旧社格「村社」に列せられています。
奉祀された年代は不詳ですが、境内にある石灯籠の年代から
江戸時代の貞享2年(1685)以前には存在していたと推測されます。
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それは、境内に聳える巨木からも判断できます。
特に本殿の斜め後ろの双子の大木は壮観で、存在感を示しています。
根元の幹周りは10m近くあると思われ、そこから二股になって幹を伸ばしています。
一方の幹はそこから更に二股になり、それぞれの幹から太い枝を伸ばし、
この一本の巨木が本殿を護っているように見えます。
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「淀際目」の信号まで戻り、府道を横断して少し東に進んだ先で左折して、
引き返すように西向きに進みます。
消防器具庫の横の細い通路を進んだ所に光福寺があります。
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光福寺は一段高い場所に建っていることが判ります。
低い所は今は道路ですが、昔はここに木津川が流れていました。
光福寺は、江戸時代に当時の寺請制度により、藤和田地区十数件の檀家を持つ寺
として木津川の堤防の上に創建されたと推察されます。
寺請制度とは、江戸時代にキリスト教を排除する目的で「すべての人は寺院の檀家
となり、寺院から寺請証文を受け取ること」を強要した制度です。
昭和8年6月に本堂・庫裏が全焼しました。
5ヵ月後の11月25日には、焼失した堂宇より大きい35坪の本堂の上棟式が行われ、翌年の5月には落慶法要が営まれました。
この頃、昭和恐慌から満州事変が勃発する状況下で、
檀家の方々が募金を集められたそうです。
消防器具庫前の道路に戻ります。
この狭い道路に、昭和15年頃まで銀色の小さな
ボンネットバスが運行されていたそうです。
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先に進むと府道に合流しますので、その手前で右折して一筋目を左折すると
若宮八幡宮の前に出ます。
先ほどの八幡宮は京都市伏見区淀際目町にあり、
こちらは久御山町の藤和田地区にあります。
古くは夕涼ノ宮と呼ばれ、冨家殿(藤原定家)の古跡と伝わり、
弁財天が祀られていたそうですが定かではありません。
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現在は、仁徳天皇が祀られています。
正保年中(1644~7)には、「美津の御牧の夕涼など程近き八幡山」
と俗謡にも謳われた著名な神社でした。
敷地面積が52坪余りの小さな社に、頭をぶつけそうな低い鳥居ですが、
地元の方々のご尽力によりきれいに整備されています。
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若宮八幡宮から更に西方向へ少し進むと広い通りに出て、
横断した角に大藤神社があります。
大藤神社は、北川顔(きたかわづら)・藤和田地区の氏神で、
大藤神社の前から振り返ると、若宮八幡宮の鳥居が見える距離にあります。
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手水鉢は、元禄8年に奉納されたようです。
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拝殿の瓦の葺き替え工事が今年行われたようで、
こちらの神社も地元の方々によって守られています。
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大藤神社の創建や変遷の詳細は不明ですが、明治のはじめまで
牛頭(ごず)天王を祀り、牛頭天王社と呼ばれていました。
明治の神仏分離によって祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)に改められ、
素盞嗚大明神と改称されました。
その後、大藤の神祠と呼ばれ、大藤神社と社号が改められました。
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10月13~4日、大藤神社では例祭が行われました。
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13日の午後8時宮座の方々が集まり、神幸祭が行われました。
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宮座は、御幣座・御神酒座・供進物座が継承されていて、
御神酒座によって御神酒を入れた錫製の器一対が捧げられます。
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供物座は、農作物や鏡餅などを担がれて社参されます。
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巫女による剣の舞と鈴の舞が奉納されます。
宮司によって祝詞が捧げられるのですが、
明日、早朝から用事があるため途中で帰宅しました。

観音寺へ向かいます。
続く

久御山町-その2(観音寺)

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大藤神社横の広い車道を進むと北から東方向へとカーブし、
車道の両側に稲穂を実らせた水田が広がります。
古地図を見ると、この付近にまで巨鯨池(おぐらいけ)が広がっていたと
思われます。
遠くにKBSラジオ送信所のタワーが見えます。
京都タワーよりも6m高い137mあり、日本のAMラジオ送信所としては数少ない
「単独自立型タワー」です。
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しばらく進むと「ほ場整備記念碑」の立派な石碑が建っています。
212ヘクタールに及ぶ広いほ場は、京都府によって昭和48年11月に着工し、
昭和56年6月に竣工されました。
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石碑が建っている先から道路の両側に民家が建ち並ぶようになり、
その中に道路に面して観音寺があります。
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山門上部には菊花御紋章が配され、白壁には五本線が引かれていることから
皇室ゆかりのお寺であったことが推察されます。
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山門の左側(東側)には太陽が彫刻されています。
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山門の右側(西側)には三日月が彫刻されています。
山門は昭和63年、本堂新築に併せて解体され、ひのき材を主材として
再建されましたが、彫刻は旧門のものが残されました。
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観音寺は、建長2年(1250)に天台宗寺院として開基されたと伝えられ、
江戸時代に浄土宗知恩院派に改宗されました。
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本堂の脇には、法然上人像が建てられています。
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山号「金華山」の扁額が掛かっています。
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本尊阿弥陀如来坐像は、像高は48.9cm、鎌倉時代中期の作とされ、
久御山町の有形文化財に指定されました。

観音寺には、『昔々、長四郎という信心深い人の夢に観音菩薩が現れ
「私は、池の中に沈んでいる。諸人を救済しなければならないから早く引き上げよ」とのお告げがあり、翌朝蓮池に舟を出し、瑞雲たなびく所に網を打ち、
十一面千手観音像を引き上げ観音寺に祀った』との伝承が残されています。
この十一面千手観音は、本尊ではありませんが、住職の晋山(しんざん)式
(新住職の入山式)の時にのみ厨子が開帳される秘仏として祀られています。
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本堂の前には「水子地蔵尊」が建てられています。
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水子地蔵尊の横には地蔵堂があります。
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境内の松の木

玉田神社へ向かいます。
続く

久御山町-その3(玉田神社)

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観音寺から先に進むと道路脇に鳥居が建っています。
この鳥居は、玉田神社(たまだじんじゃ)の二の鳥居で、その先に見える森は、
かって山城地方の著名な森8箇所に含まれ、「玉田の森」と呼ばれていました。
現在は、境内地が縮小され、また、台風などの被害により本数が
かなり失われたそうです。
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玉田神社一の鳥居は、江戸時代の寛永年中(1624~44)に建立されました。
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参道を進むと社務所と隣接して神庫が建てられています。
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社務所前に置かれた手水鉢は、宝永7年(1710)に奉納されました。
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拝殿にはガラス戸がはめられています。
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拝殿の前には、炎の中を駆ける馬のレリーフが建てられています。
玉田神社には、「玉田大明神火難除、御霊験名馬火鎮由来」の
版木が残されています。
それによると、「聖武天皇の御代(701~56)、左大臣・橘諸兄が御牧の地より
一頭の馬を献上した。
ある時、その馬がしきりにいななき続けるので、
人々は不思議に思っていたところ、三日後に宮中で火災が発生した。
その時は、発見も早く大事には至らなかった。
数日後、再び馬が三日間いななき続けた。
その三日後に、内裏にまで炎に包まれるほどの大火事が発生した。
馬はくつわを外して火中に飛び込むと、たちまち炎が静まった。
天皇はいたく感心され、馬に「火鎮(ひしずめ)」の名を与え、
玉田大明神の化身の神馬だとして元の御牧に返された」との伝承が残されています。
事実だとすると、奈良時代から美豆に御牧(古代の朝廷の直轄牧場)が
設けられていたことになり、京都市伏見区に淀美豆町、
久御山町に御牧の地名が残されています。
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境内には、御神木の巨木が聳えています。
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巨木の傍らには、「大神宮両宮遥拝所」と「神武天皇遥拝所」の
石碑が建っています。
大神宮両宮とは伊勢神宮を指しているようです。
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本殿は、久御山町内で隋一の四間社流造りで、武甕槌命(たけみかづちのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)・誉田別尊(ほむたわけのみこと・
応神天皇)、武内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)が祀られています。
「御牧郷村名宮寺初記」文政11年(1828)の「玉田大明神縁起」によると、
仁徳天皇の時代(5世紀前半ごろ)、木津川より流来るご神体を引き上げ
(その場所を早揚という)、神宮山法楽院に宮を立て丹波津宮(たにはつのみや)
と称する。
天正14年(1586)及び寛永元年(1624)の棟札が現存し、それによれば天正14年、
現在の場所に遷座し、御牧城主・御牧勘兵衛尚秀によって再興され、
寛永元年(1624)淀城主板倉伊賀守高勝によって修復される。』
とあります。
板倉伊賀守高勝?板倉勝重は、慶長8年(1603)に従五位下・伊賀守に叙任され、
同14年(1609)には近江・山城に領地を加増されていますが、
寛永元年に亡くなっています。
元和6年(1620)、長男の重宗(板倉周防守重宗)に
京都所司代の職を譲っています。

かっての鎮座地は、現在、華台寺(けだいじ)がある所に「中島法楽寺」という
地名が残されていますが、法楽寺は廃寺になっています。
御牧勘兵衛尚秀は、戦国時代の武将で御牧の地を領し、
御牧城を築城して城主となりました。
また、神社内に立つ駒札では、「社記によれば、飛鳥時代の和銅3年(710)に
元明天皇(げんめいてんのう)の勅願により創建され、
かっては美豆野神社(みづののかみやしろ)または丹波津宮と称されていた。」
と記されています。
平城京遷都の際、皇城鬼門除けの祈願により、日本初の八方方除けの守護神として
崇められました。
その後、桓武天皇が山城に遷都される時も当社に伺いを立てられ、
代々の天皇が方除けの守護神として信仰された格式の高い神社でした。
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幣殿前に置かれたおみくじは無料で引くことができますが、筒は結構重たいです。
引いた番号が見難い場合に備えてルーペも用意されています。
運勢は背後の板に記されています。
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本殿の右横には、姫大神社(ひめのおおかみしゃ)・稲荷社が祀られています。
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稲荷社には、狛犬ならぬ狛狐が社殿を護っていますが、
徐々に大きくなる狐像がユーモラスに見えます。
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拝殿の横には、金比羅社・市杵神社(いちきじんじゃ)が祀られ、
本殿の祭神四社とあわせて八社を祀ることから玉田八社大明神と称されています。
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本殿の裏側には「明治天皇遥拝所」の石碑が建っています。

玉田神社の秋祭りは、10月8日~10日の日程で行われました。
容量オーバーのため祭りの模様は明日に続きます。

鳥取県中部地震

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本日、21日午後2時7分ごろ、鳥取県中部を震源とする地震が発生しました。
携帯電話の緊急地震情報の通知があり、その後京都でも震度3の地震が観測されました。
昭和18年(1943)9月10日に発生した鳥取大地震は、
鳥取県東部を震源としたM7.2の地震でしたが、その翌年の昭和19年12月7日に
昭和東南海地震が発生しました。
その翌年の昭和20年1月13日にM6.3の三河地震が発生し、
更にその翌年の昭和21年12月21日にM8.0の昭和南海地震が発生しました。
また、平成7年(1995)1月17日にM7.3の規模で発生した兵庫県南部地震から
5年後の平成12年10月6日にM7.3の鳥取県西部地震が発生しています。
今回の地震が、昭和鳥取大地震のように連鎖しないよう願っています。
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