大原野神社から勝持寺(花の寺)へは2~3分山道を進みます。
しばらく進むと鳥居があり、橋を渡ると直ぐに勝持寺の参道に合流します。
仁王門が参道の下方に見えますが、参道を進みます。
勝持寺まで400mとの立て札がありますが、緩い上り坂です。
途中に勝持寺に付属した小寺院跡の石塁が残されています。
このような小寺院は多数存在していたようですが、
このような小寺院は多数存在していたようですが、
平成22年から24年にかけて第二外環状道路の建設工事に
先がけた発掘調査が行われました。
その結果、鎌倉時代から室町時代の複数の小寺院跡が発掘され、
その結果、鎌倉時代から室町時代の複数の小寺院跡が発掘され、
建物・井戸・石塁・石垣などが見つかりました。
この場所に保存されている石塁の一部は、ここから南へ約60mの地点で
この場所に保存されている石塁の一部は、ここから南へ約60mの地点で
発見されたものが移築されました。
この石塁は、室町時代に勝持寺境内の子院の区画施設として作られた
この石塁は、室町時代に勝持寺境内の子院の区画施設として作られた
石積みの塀の一部です。
参道の突き当たりは直角に曲がっています。
左側、竹垣の向こうに冴野(さえの)の沼があります。
角を曲がると南門が見えます。
勝持寺は、正式には小塩山大原院勝持寺と称し、花の寺とも呼ばれています。
寺伝では、創建は白鳳8年(679)に天武天皇の勅命により役の行者が開基しました。
延暦10年(791)、桓武天皇が最澄に命じ堂塔伽藍を再建し、
寺伝では、創建は白鳳8年(679)に天武天皇の勅命により役の行者が開基しました。
延暦10年(791)、桓武天皇が最澄に命じ堂塔伽藍を再建し、
最澄自らが薬師瑠璃光如来を彫って本尊としました。
日光・月光両菩薩と十二神将、毘沙門天が安置されました。
日光・月光両菩薩と十二神将、毘沙門天が安置されました。
仏陀上人によって再興され、大原野春日社の供養寺としました。
当初、大原寺と呼ばれていましたが、
当初、大原寺と呼ばれていましたが、
寺号を「大原院勝持寺」と改めたといわれています。
平安時代の保延6年(1140)、鳥羽上皇に仕えていた佐藤兵衛義清が勝持寺で出家し、西行と名を改めて庵を結びました。
一株の桜を植えたことから、「花の寺」と呼ばれるようになりました。
その後、応仁・文明の乱により、仁王門以外すべて焼失し、以後衰微しました。
安土・桃山時代の天正年間(1573~1592)に織田、豊臣の勧進により再興され、
平安時代の保延6年(1140)、鳥羽上皇に仕えていた佐藤兵衛義清が勝持寺で出家し、西行と名を改めて庵を結びました。
一株の桜を植えたことから、「花の寺」と呼ばれるようになりました。
その後、応仁・文明の乱により、仁王門以外すべて焼失し、以後衰微しました。
安土・桃山時代の天正年間(1573~1592)に織田、豊臣の勧進により再興され、
仏殿が再建され本尊が安置されました。
江戸時代には、桂昌院の寄進により修復が行われています。
江戸時代には、桂昌院の寄進により修復が行われています。
南門をくぐった右側に、まだ新しそうな十三重石塔が建っています。
受付で拝観料400円を支払い、小さな門をくぐって阿弥陀堂へと向かいます。
阿弥陀堂は、ガラス戸越しに堂内が見られますが、撮影は禁止されています。
阿弥陀堂は、ガラス戸越しに堂内が見られますが、撮影は禁止されています。
阿弥陀堂の左側の廊下には、昔の消火用のポンプが置かれています。
「火の用心」を強く訴えているような気がします。
「火の用心」を強く訴えているような気がします。
阿弥陀堂の横には、駕籠が...
阿弥陀堂の裏側には、滝行場の跡らしき所が見受けられます。
現在でも水がチョロチョロですが落ちています。
阿弥陀堂の正面に戻ります。
阿弥陀堂の廊下には賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)の像が置かれています。
本堂の外に置かれるのが一般的だそうで、禅宗では食堂に置かれたりもします。
賓頭盧尊者は十六羅漢の第一に挙げられ、博識であり慈悲深く十善を尊重し、
本堂の外に置かれるのが一般的だそうで、禅宗では食堂に置かれたりもします。
賓頭盧尊者は十六羅漢の第一に挙げられ、博識であり慈悲深く十善を尊重し、
神通力を持った人物とされています。
「諸病悉除衆苦代受(しょびょう・しつじょ・しゅうく・だいじゅ)」
なでぼとけの別名を持つこの仏様は、心身の病んでいるところと、
「諸病悉除衆苦代受(しょびょう・しつじょ・しゅうく・だいじゅ)」
なでぼとけの別名を持つこの仏様は、心身の病んでいるところと、
同じところを撫でて、一心にお参りすると病が治るという
ご利益があります。
廊下の右側には半鐘が吊り下げられています。
廊下を渡って瑠璃光殿に向かいます。
続く
続く