玉田神社の秋祭りは、10月8日~10日の日程で行われました。
拝殿は、飾り付けが行われています。
拝殿は、飾り付けが行われています。
拝殿には、二基の神輿が置かれています。
上の画像は拝殿の正面から、下の画像は裏側からのものです。
右側は八幡神、左側は春日神をご神体としています。
右側は八幡神、左側は春日神をご神体としています。
神輿の底板からは明治20年に修復されたことが残されています。
最近は担ぎ手の不足から神輿の巡幸も行われていません。
10月8日、宮座の方々が、それぞれの神宝を持参されて集まり、
午後6時より約50分間神幸祭が行われました。
今まで、祭りの期間は5日間でしたが、今年から10日の祝日を含む3日間に
今まで、祭りの期間は5日間でしたが、今年から10日の祝日を含む3日間に
短縮され、神幸祭も開始時間が1時間遅れと変更されました。
玉田神社には8の宮座が残されていて、
代表される方々が社務所の前で整列されて拝殿に上がられます。
その後、祝詞が唱えられ、境内の照明が消されて、
その後、祝詞が唱えられ、境内の照明が消されて、
二基の神輿にご神体が遷されました。
9日の日中、子供の無料福引会が行われ、屋台も出ていて賑わっていました。
午後5時30分から宵宮祭が行われ、神楽が奉納されました。
10日の午後5時から還幸祭が営まれ、再び宮座の方々が、
それぞれの神宝を持参されて拝殿前に集まりました。
宮座を代表される方々は、烏帽子に狩衣装束姿で、社務所の前で整列され、
西側から神社を半周されて、鳥居をくぐり参道から拝殿へと行進されます。
その後、照明が消され、神輿から御神体が本殿へと遷され、
参加された方々は提灯を先頭に神社を後にします。
稲穂が風にたなびく中を提灯が進む光景は、
稲穂が風にたなびく中を提灯が進む光景は、
映画のワンシーンを見ているようであり、感動的でありました。
古代から綿綿と受け継がれてきた、深い歴史を感じさせる祭りでした。
古代から綿綿と受け継がれてきた、深い歴史を感じさせる祭りでした。
改めて玉田神社の続きです。
玉田神社の西口から正面の水田に挟まれた道路を進み
玉田神社の西口から正面の水田に挟まれた道路を進み
T字路を右折した先に御牧小学校があります。
小学校と保育所の間の道を左折すると、玉田神社三の鳥居が建っています。
小学校と保育所の間の道を左折すると、玉田神社三の鳥居が建っています。
鳥居の傍らには、「平安朝・御牧馬寮故址」の石碑が建っています。
この石碑は、昭和3年に三宅安兵衛(実際にはその子清治郎)によって
この石碑は、昭和3年に三宅安兵衛(実際にはその子清治郎)によって
建立されました。
三宅安兵衛は、京都市中京区に在住していたのですが、
三宅安兵衛は、京都市中京区に在住していたのですが、
晩年に当時の金額で1万円(現在の金額で約5千万円)を子の清治郎に託しました。
清治郎は、「京都の公利公益に活用するべし」との父の言付を受けて、
清治郎は、「京都の公利公益に活用するべし」との父の言付を受けて、
社寺や旧跡に関する案内碑や道標を建立しました。
実際に牧場が存在した場所は不明で、かってこの地が旧御牧村の行政の中心地で
実際に牧場が存在した場所は不明で、かってこの地が旧御牧村の行政の中心地で
あったことから建てられたのであろうと推察されています。
「刈りて干す美豆(みず)の御牧の夏草は、しげりにけりな駒もすさめず」と
平安の古歌に歌われた美豆の御牧は、
厩畠(うまやはた)11町野地50町余りあったとされる広大な御寮牧場でした。
この歌碑は、玉田神社一の鳥居前に建てられています。
この歌碑は、玉田神社一の鳥居前に建てられています。
華台寺へ向かいます。
続く
続く