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少し時間に余裕が出てきましたので、京都や近郊を歩いてみたいと思います。

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  • 10/21/16--14:29: 玉田神社の秋祭り
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    玉田神社の秋祭りは、10月8日~10日の日程で行われました。
    拝殿は、飾り付けが行われています。
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    拝殿には、二基の神輿が置かれています。
    上の画像は拝殿の正面から、下の画像は裏側からのものです。
    右側は八幡神、左側は春日神をご神体としています。
    神輿の底板からは明治20年に修復されたことが残されています。
    最近は担ぎ手の不足から神輿の巡幸も行われていません。
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    10月8日、宮座の方々が、それぞれの神宝を持参されて集まり、
    午後6時より約50分間神幸祭が行われました。
    今まで、祭りの期間は5日間でしたが、今年から10日の祝日を含む3日間に
    短縮され、神幸祭も開始時間が1時間遅れと変更されました。
    玉田神社には8の宮座が残されていて、
    代表される方々が社務所の前で整列されて拝殿に上がられます。
    その後、祝詞が唱えられ、境内の照明が消されて、
    二基の神輿にご神体が遷されました。
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    9日の日中、子供の無料福引会が行われ、屋台も出ていて賑わっていました。
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    午後5時30分から宵宮祭が行われ、神楽が奉納されました。
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    10日の午後5時から還幸祭が営まれ、再び宮座の方々が、
    それぞれの神宝を持参されて拝殿前に集まりました。
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    宮座を代表される方々は、烏帽子に狩衣装束姿で、社務所の前で整列され、
    西側から神社を半周されて、鳥居をくぐり参道から拝殿へと行進されます。
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    その後、照明が消され、神輿から御神体が本殿へと遷され、
    参加された方々は提灯を先頭に神社を後にします。
    稲穂が風にたなびく中を提灯が進む光景は、
    映画のワンシーンを見ているようであり、感動的でありました。
    古代から綿綿と受け継がれてきた、深い歴史を感じさせる祭りでした。
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    改めて玉田神社の続きです。
    玉田神社の西口から正面の水田に挟まれた道路を進み
    T字路を右折した先に御牧小学校があります。
    小学校と保育所の間の道を左折すると、玉田神社三の鳥居が建っています。
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    鳥居の傍らには、「平安朝・御牧馬寮故址」の石碑が建っています。
    この石碑は、昭和3年に三宅安兵衛(実際にはその子清治郎)によって
    建立されました。
    三宅安兵衛は、京都市中京区に在住していたのですが、
    晩年に当時の金額で1万円(現在の金額で約5千万円)を子の清治郎に託しました。
    清治郎は、「京都の公利公益に活用するべし」との父の言付を受けて、
    社寺や旧跡に関する案内碑や道標を建立しました。
    実際に牧場が存在した場所は不明で、かってこの地が旧御牧村の行政の中心地で
    あったことから建てられたのであろうと推察されています。
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    「刈りて干す美豆(みず)の御牧の夏草は、しげりにけりな駒もすさめず」と
    平安の古歌に歌われた美豆の御牧は、
    厩畠(うまやはた)11町野地50町余りあったとされる広大な御寮牧場でした。
    この歌碑は、玉田神社一の鳥居前に建てられています。

    華台寺へ向かいます。
    続く


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  • 10/22/16--14:15: 久御山町-その4
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    「平安朝・御牧馬寮故址」の石碑から道路が緩く右にカーブした先に
    華台寺があります。
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    華台寺は、寛仁3年(1019)に開基され、
    九品山往生院(くほんざんおうじょういん)と号し、
    中世末から近世初期までは天台宗寺院でした。
    現在は、浄土宗に改められ観音信仰の寺となり、西国三十三ヵ所の本尊の模刻像と
    霊場の砂が置かれ、居ながらにして功徳が得られる寺となっています。
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    境内に入ると、よく手入れされた美しい松が出迎えてくれます。
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    梵鐘は、昭和23年に鋳造されました。
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    本堂はコンクリート造りで、昭和53年に再建されました。
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    本堂の前には法然上人像が建てられています。
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    庫裏の前には、ハスの花瓶が並べて置かれています。
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    地蔵堂は、明治初年に廃寺となった中島・釘貫(くぎぬき)の法雲庵の本堂を
    移築し、大正10年に屋根を瓦葺に替えるなど修復工事が行われました。
    地蔵堂の本尊である地蔵菩薩立像は、「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれ、
    伝承が残されています。
    『天正10年(1582)山崎の合戦で明智方に味方した御牧三左衛門は、
    敗戦の苦しみと頭に受けた傷の痛みで苦悩していたが、苦抜地蔵の霊験あらたかな
    ことを聞き、針貫村を訪れて7日間祈願を続けました。
    満願の夜、地蔵尊が夢の中に現れ、「汝の苦しみは、前世に人を怨んでその頭に
    五寸釘を打って呪ったことがあるだろう。
    今、その罪が因果となって汝を苦しめている。しかし、幸いに罪を悔い我に
    祈っている。ゆえに仏の力をもって怨み釘を抜いてやろう」とのお告げがあり、
    一本の釘を示されたと云う。
    夢から覚めた三左衛門は、傷みが消えていて、感謝して地蔵尊を拝めば、
    血染めの五寸釘が尊像の前にあったという』
    以後、諸々の苦しみを抜き取ってくださると信仰を集めています。
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    華台寺から元来た道をカーブしている所まで戻り、斜め方向に左折します。
    その先、三筋目を右折した先に光明寺があります。
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    光明寺は、明治の初めまで現在の御牧小学校の敷地に建立されていて、
    薬師如来を本尊とすことから、玉田神社の三の鳥居付近を地元の人々は
    「薬師前」と呼んでいました。
    光明寺は、明治13年に相島(おじま)で廃寺となっていた安福寺に移転しました。
    現在の本堂・庫裏は平成3年3月に竣工し、5月11日に落慶法要が行われたものです。
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    光明寺から東方向へ進みT字路を右折して、
    その先の十字路を左折して北方向に進みます。
    京滋バイパスをくぐり、橋を渡った先、左にカーブしている道なりに進むと、
    現在工事中の山田家住宅があり、手前の塀沿いに左折した突き当たりに
    安養寺があります。
    門前には「引上げ奉る観世音菩薩像、弥陀次郎尭円大居士 安養寺」と刻まれた
    高さ2.5mの石標が建てられいます。
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    本尊の十一面観世音菩薩像には、弥陀次郎伝説が残されています。
    詳細は光明寺の釈迦堂をご覧ください。
    十一面観世音菩薩像は秘仏とされ、毎年春の彼岸前の土・日曜に営まれる
    法要の際に開帳されます。
    この春祭りは、かっては3月18日に行われていたものですが、
    春祭り当日には南山城地域唯一の伝承念仏の「双盤念仏」が行われます。
    「鉦(かね)講」の十人が鉦をたたきながら「南無阿弥陀仏」と独特の節回しで
    詠唱するもので、現在も保存会が作ら引き継がれています。
    また、33年毎に長期間の大法要が行われますが、観音菩薩が33の姿に化身して
    民衆を救うという「観音経」の経典に由来するといわれています。
    この大法要は、200年以上続いていて、2011年に31年ぶりに行われたそうで、
    33年というのは目安だそうです。
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    本堂には、「びんづるさん」が安置されています。
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    境内にある地蔵堂の地蔵尊は綺麗に着色されています。
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    安養寺の門を出てすぐ左(西方向)に曲がり、狭い道を進むと
    豊吉(ほうよし)稲荷神社があります。
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    前面は玉垣、側面から背面は赤く塗られた土塀で囲まれた15坪余りの狭い境内に
    社殿が建てられています。
    太田 道灌(おおた どうかん)の娘が重い疱瘡にかかり苦しんでいたところ、
    京の一口(いもあらい)に祀られている稲荷神社が疱瘡の霊験あらたかなことを
    知り、使いを送り祈願しました。
    使いの者が祈祷の幣を捧げて帰ってくると、疱瘡は徐々に快方に向かい、
    間もなく痕跡も残らずに完治しました。
    道灌は、一口稲荷を江戸城内に勧請し、社殿を建立して祀りましたが、
    慶長11年(1606)に徳川家康が江戸城を大改築したことに伴い神田駿河台の坂上に
    遷され、太田姫大明神と称されるようになり、
    この坂は一口坂と呼ばれるようになりました。
    真偽のほどは不明で、神田駿河台に行った事も無いので、
    一口坂が本当にあるのか確かめてもいません。
    しかし、入口の社標は、平成4年に建立されましたが、
    東京の太田姫稲荷神社の宮司の書によるものです。
    また、疱瘡が「いも」とも呼ばれていたことから、
    一口地名の由来の一つとされています。

    京阪淀駅へと戻ります。
    続く






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  • 10/24/16--13:44: 久御山町-その5
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    豊吉稲荷神社から西に進むと宇治川の堤防に出て、
    北側に巨椋池排水機場があります。
    巨椋池(おぐらいけ)は、昭和8年から16年にかけて国営干拓事業が行われました。
    干拓された田畑には、宇治川からポンプによって汲み上げた水を農業用水として
    利用し、田畑を流れた後は、排水路を経由し、前川となって巨椋池排水機場から
    宇治川へ戻されています。
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    旧施設は干拓事業に伴い建設され、10台のポンプが設置されていました。
    新施設が完成したのに伴い、旧施設は取り壊されましたが、
    その敷地に当時のポンプが展示されています。
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    旧施設跡地には東屋が造られ、その奥新施設内には「巨椋池まるごと格納庫」が
    併設されているのですが、残念ながら閉まっていました。
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    ゲートを開閉するタワーが残されています。
    このゲートを開くと水路が古川と繋がり、久御山排水機場と
    同時に排水が行われるように造られていたと思われます。
    干拓地の基幹的な排水施設である巨椋池排水機場は、干拓事業とあわせて
    建設されましたが、その後、流域の都市開発等により流出形態が大きく変化し、
    農地の湛水被害が増加してきました。
    昭和28年9月25日、台風13号による大雨で宇治川が決壊し、
    干拓地とその周辺が浸水しました。
    その様なこともあり、排水能力の向上が検討されるようになり、農林水産省は、
    巨椋池排水機場の全面改修に平成9年度から着手し、平成17年4月に
    新排水機場が完成し供用が始まりました。
    また、平成16年度から、巨椋池排水機場の機能が十分発揮できるように、
    京都府山城土地改良事務所が施行主体となって、幹線排水路の改修工事
    (国営附帯府営農地防災事業巨椋池地区)がスタートしました。
    そのため、「京都の自然200選」に指定されていた前川堤の桜の一部が
    伐採されることになりました。
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    巨椋池排水機場の南側には、古川の排水を担当する久御山排水機場があり、
    こちらは国土交通省によって管理されています。
    昭和30年頃、巨椋池干拓地全体の3%に過ぎなかった宅地面積は、
    昭和60年代には45%に達し家庭からの排水量の増加に伴い、
    昭和48年に建設されました。
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    裏側に廻ってみると、水鳥がたくさん集まっていました。
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    久御山排水機場から宇治川堤防沿いの車道を下流側に下った所に
    「淀川渡船所」と刻まれた石柱が建っています。
    宇治川の付替え工事で対岸の淀への交通が不便になった
    東一口の自治会が運行を始めました。
    30人が乗れる船が運航されていたそうです。
    その後バスが運行され、この付近に「西一口」の停留所が設置され
    渡船は廃止されました。
    その「西一口」のバス停も今は廃止されたようです。
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    堤防沿いの車道を下って行くと、京滋バイパスと併走するようになり、
    「久御山・淀」インターの下をくぐります。
    くぐった先で左折すると極楽寺があります。
    極楽寺は、明治の淀川改修工事で、今の淀大橋付近の宇治川河川敷
    (北川顔里東)から北川顔表畑への移転を余儀なくされました。
    昭和58年には、檀信徒の寄進により本堂・書院・庫裏が再建されましたが、
    京滋バイパスの建設に伴い、再度現在地に移転されました。
    三門前には高さ3m余りの「南無阿弥陀仏」と掘り刻まれた名号石が
    建てられています。
    この石標は、享保2年(1717)に阿弥陀仏百巻を読誦した記念に建立されました。
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    山門の左横には稲荷社が祀られています。
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    本堂は、現代風のデザインです。
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    山号「柳東山」の扁額が掛かっています。
    本尊の阿弥陀如来像は、安阿弥(快慶の念仏号)の作で、
    徳川二代将軍秀忠の念持仏でした。
    北川顔村出身の女性が、秀忠に仕えて寵愛を受けたことから、
    秀忠が他界した折には、この仏像と共に位牌を祀るように仰せつかりました。
    本堂には、今も本尊と共に秀忠の位牌が祀られているそうです。
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    極楽寺の裏側へと廻ります。
    裏門には、旧極楽寺の山門が移築されています。
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    墓地への入口には、石仏が建てられています。
    阿弥陀如来像でしょうか?優しい顔をされていて、観音像にも見えます。

    京阪淀駅周辺には、與杼(よど)神社の神輿渡御を知らせる立看板が目に付きます。
    帰ってから調べてみると、11月2日に宵宮が営まれ、太鼓演奏などが行われ、
    11月3日の午前8:15に祭礼が開始されます。
    與杼神社では、中社・西社・東社の三基の神輿が、8:40から順次渡御を開始して、
    午後2:30~2:45に三社の納所(のうそ)交差点辻回しが行われるそうです。
    與杼神社の祭りも見たいですし、改めて日程を調整しながら久御山町役場まで
    バスで行き、久御山町の中部を巡りたいと思います。
    続く

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    與杼(よど)神社は、昨年このブログでサラーッと取り上げた事があるのですが、
    改めて紹介したいと思います。
    京阪淀駅の前を高架に沿って大阪方面に進むと、突き当りが駐輪場になり、
    向かいのコンビニを曲がった所に與杼神社の鳥居が建っています。
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    鳥居の横には祭神を刻んだ石標が建っています。
    與杼神社の文献初例として、平安時代に編纂された
    延喜式(905年~927年)第9巻「山城乙訓郡」に與杼神社が見られます。
    また、神社の伝承では、平安時代の応和元年(961)ごろに
    僧の千観内供が肥前国(佐賀県)の與止日女(よどひめ)神社より、
    淀大明神として勧請したのが始まり云われています。
    以前は、納所(のうそ)交差点から宮前橋を渡った桂川右岸の橋から
    下流の水垂(みずたれ)村大荒木の森(現在の伏見区淀大下津町)に
    鎮座していました。
    明治33年(1900)、桂川堤防の拡張工事に伴い現在地に遷されました。
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    社務所は平成12年(2000)に新築されました。
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    神輿庫は、2007年に新造され、3基の神輿が納められています。
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    神輿庫の横に、以前の神輿庫に使われていた瓦が並べられています。
    神輿庫が新造される前は、天明2年(1782)に建造されたと推定されている
    割拝殿を、昭和15年に改修して神輿庫として使用していました。
    ここに並べられている瓦は、割拝殿が建造された当時の江戸時代のものです。
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    神輿庫の手前には大注連縄が張られています。
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    大注連縄が架けられているイチョウの木の傍らには手水舎があります。
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    拝殿は江戸時代の慶安2年(1649)頃に、当時の本殿として建立されたとみられ、
    国の重要文化財に指定されています。
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    現在の本殿は、昭和50年(1975)、子供の打ち上げ花火による失火により
    旧本殿が全焼してしまったため、昭和55年に再建されました。
    三間社流造りの銅板葺き屋根で、豊玉姫命高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、
    速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)が祀られています。
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    本殿の前、右側には玉乗り狛犬が置かれています。
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    左側の子持ち狛犬は、微笑ましく見えます。
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    本殿の右側に鎮座する日大臣社(ひだいじんしゃ)。
    本殿が再建されるまでの間は、伊勢神宮より「由貴御倉(ゆきのみくら)」が
    遷され、もとの本殿敷地内に仮本殿とされていましたが、
    本殿が再建されてからは、日大臣社として現在地で祀られています。
    普段は社殿前の扉は閉じられています。
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    本殿の左側には、江戸時代の豪商、大坂淀屋ゆかりの高灯籠が設置されています。
    江戸時代の初期、淀屋の初代岡本与三郎は、淀周辺の岡本荘の出身との説があり、
    淀の地に家や田畑を所有していたとの記録が残されています。
    淀屋は、大坂で豪商となり、幕府を凌ぐほどの財産を有しましたが、
    宝永2年(1705)に闕所(けっしょ)となり、財産没収と所払いの処分となりました。
    4年後の宝暦13年(1763)には、「淀屋清兵衛」(後期淀屋)が木綿問屋として、
    大坂の元の地に再興を果たしました。
    この高灯籠は、淀屋ゆかりの者が再興を宣言して寄進されたもの云われています。
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    高灯籠の向かいには、左から川上社、豊丸社、長姫社、の社殿が並んでいます。
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    川上大神、豊丸大神、長姫弁才天が祀られています。
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    三社の社殿から少し下った所は、自動車の御祓い所です。
    與杼神社の秋季大祭は、10月30日~11月3日の日程で行われました。
    残念ながら10月中は訪れる事ができませんでしたが、
    11月2日の宵宮から何とか都合をつける事ができました。
    10月30日には神楽が奉納されたそうです。
    宵宮と神輿渡御については次号に続く。








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    與杼神社の秋季大祭は、10月30日~11月3日の日程で行われ、
    11月2日には宵宮が行われました。
    宵宮当日、午後7時に訪れると間もなく橘高校太鼓部による演奏が始まりました。
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    橘高校は、3年前の「第24回全国高等学校総合文化祭優秀校」の
    郷土芸能で日本一に輝いた実力校で、圧倒されました。
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    続いて淀出身のシンガー(お名前忘れました)がオリジナル曲等を披露されました。
    すばらしい歌唱力に魅了されました。
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    締めを飾ったのは、藤森太鼓保存会の皆さんです。
    藤森太鼓保存会は、「藤森神社創建千八百年祭」に奉納演奏するために
    平成17年に結成されました。
    和太鼓集団「鼓童」の元メンバー南條明氏の指導を受けるなどして
    実力を磨いています。





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    11月3日午前8時、拝殿の前に3基の神輿が配置され、
    担ぎ手の人々が集まってきました。
    報道によると、担ぎ手などに950人の方々が集まったそうです。
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    午前8:15、祭礼が始まりました。
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    神輿が御祓いにより清められ、御神霊が遷されます。
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    8:40に中社から宮出しが行われました。
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    順次、西社・東社と高張提灯(ぢょうちん)を先頭に渡御が開始されました。
    中社は旧千本通りを、西社・東社はそれぞれ淀の中心地を経て、
    12:00前に宮前橋を渡りお旅所へと向かいます。
    神輿渡御は、江戸時代以前から行われてきたそうで、
    旧鎮座地であった淀水垂(みずたれ)町へは、桂川を船で渡る「船渡御」も
    行われていました。
    第二次世界大戦中に一時中断し、戦後復活されましたが、
    「船渡御」は廃され宮前橋を渡るようになりました。
    しかし、昭和32年から神輿渡御は中断され、平成14年になって
    神輿1基で復活されました。
    平成16年に神輿は2基になり、平成20年になってようやく本来の
    3基渡御の姿に戻りました。
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    神輿は3基とも江戸時代の歴史のあるものです。
    午後から3基の神輿が連なって水垂町を巡り、
    納所(のうそ)交差点で三社辻回しが行われます。
    続く


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    12:40にお旅所を出発した三社の神輿とその行列は、與杼神社の旧鎮座地である
    淀水垂(みずたれ)町を巡り、桂川の堤防から宮前橋を渡り納所交差点へと
    戻ってきます。
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    14:30~14:45、一時交通を遮断して納所交差点で三社辻回しが行われ、
    多くの人が見物に集まりました。
    與杼神社・神輿渡御のクライマックスともいえる場面です。
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    15:20に東社から宮入りが行われました。
    「ホイット!ホイット!」の掛け声と共に、
    担ぎ棒の金具を鳴らしながら拝殿を三周します。
    見物するほうも掛け声に併せて手を打ち一体となります。
    神輿がすぐ脇を通りますので迫力があります。
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    小さな女の子も、大きな声で神輿を先導しています。
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    本殿の前で神輿は平行に持ち上げられました。
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    その後、本殿に向けて神輿が持ち上げられます。
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    神霊が社殿へと戻されます。
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    神輿庫へ納められます。
    その後、中社・東社へと順次宮入りが行われました。
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    午後4時頃には3基の神輿は無事に神輿庫に納められました。
    與杼神社の神輿渡御は、勇壮で見ごたえのあるものでした。

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  • 11/13/16--01:40: 久御山町-その6
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    当初、久御山町役場から久御山町中部を巡る予定でしたが、
    京阪淀駅から京阪バスの京阪宇治駅行きに乗り、藤和田で下車に変更しました。
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    バス停から先、淀生津の信号を左折して島田の堤防跡を進むのですが、
    旧木津川とされる所との高低差が殆どありません。
    地名だけは「古堤防中村」と残されています。
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    先に進むと右方向は少し上り坂、左方向は少し下り坂になったY字路に
    なりますので、左方向に進みます。
    道路の傍らに、たわわに実をつけた柿の木が立っています。
    「誰も取らないのだろうか?」「きっと渋柿だろう」と余計な事を
    考えてしまいます。
    地図では柿の木から道路が直進しているようですが、実際には左に曲がっていて、
    その先で直進している道路に交わるようです。
    直進している道路の中ほど、細い路地の突き当たりに妙蓮寺があります。
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    妙蓮寺は、「御牧郷寺社明細帳」によると室町時代後期の
    天文元年(1532)に開基されたと伝わります。
    封戸村の西福寺と島田村の浄音寺を末寺に持っていましたが、
    淀藩が通達した触書「貧寺は破棄、無住寺は廃寺、跡地は開墾する」により、
    両寺とも廃寺となり、跡地は農民に払い下げられました。
    妙蓮寺は、宝暦7年(1757)7月21に本堂などを焼失し、過去帳などが失われました。
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    本堂
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    現在の本堂や庫裏は、最近建てられたように見えます。
    本堂と庫裏の間には、何やら不思議な石柱が...
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    庭園は綺麗に手入れされているのですが、なぜソテツが...

    妙蓮寺の前を東に進むと南北の広い通りに出られ、
    その通りを右折して府道へと出ます。
    ローソンを通り過ぎると、通りの向かいに消防署があり、
    久御山町役場と並んでいます。
    角に交番があるT字路の信号で役場側に渡り、
    少し進んだ先を右折すると郵便局があります。
    先に進むとY字路になり、国道1号線の下をくぐり木津川の堤防沿いへと
    続いていきます。
    堤防へと上がる階段が見える所、下津屋区公民館の横の路地を入った突き当たりに
    迎接寺(こうしょうじ)があります。
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    迎接寺は、下津屋集落唯一の寺院で、元は天台宗の寺院として創建されたと
    考えられています。
    築地塀には三本線が引かれています。
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    山門の瓦には、菊花紋が入っています。
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    戦国時代の天文18年(1549)に称念上人によって中興され、
    浄土宗に改宗されました。
    現在の本堂は平成11年11月に再建されました。
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    本堂には聖観音菩薩坐像が安置されていて、この像は平安時代前期の作で彩色され、像高は77.6cmで、久御山町の文化財に指定されています。
    巨椋池周辺では最古の観音菩薩像とされ、彩色は現在では剥落しています。
    元は、迎接寺の先にある室城神社(むろきじんじゃ)の神宮寺の本尊
    であったと考えられています。
    神宮寺は、護国山神宮寺妙観院と称し、真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)の末寺
    でしたが明治初期に廃寺となりました。
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    境内には経塚が設けられていました。
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    歴史の有りそうな石塔もあります。

    木津川の堤防沿いの道まで戻り、を迎接寺から上流側に進んだ先に
    室城神社があります。
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    室城神社の創建は、奈良時代の神亀年間(724~49)に近国で発生した
    大洪水によって民衆が飢えていた時、聖武天皇の勅により、
    天神地祇(てんじんちぎ)を祀ったのが始まりとされています。
    また、聖武天皇の在位中(724~49)に悪病の流行があり、
    天皇は当社に弓矢を献奉してその退散を祈願されました。
    現在行われている春祭りの矢形餅(やかたもち)神事の起源とされ、
    神事では弓矢をかたどった神饌(しんせん)が供献されます。
    室城神社の旧鎮座地は「室ノ木」でしたが、寛永7年(1630)に木津川の
    堤切れを起こした洪水により壮大な社殿は流失しました。
    大正3年(1914)、木津川改修工事により、現在地に遷され、
    旧社地は木津川の底となりました。
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    境内に入った左側に「榎」と思われる木が祀られています。
    室城神社の名称について、「神社要録」「神名帳考証」に
    室城とは室樹のことをいい、当社はこの地区を開拓した豪族の
    榎室連(えむろのむらじ)の祖を祀った神社であろうとしています。
    古代豪族であった榎室連は、天火明命(あめのほあかりのみこと)を祖とし、
    この地の開拓に携わりました。
    聖徳太子が久世郡水主郷の水主古麻呂の家に立ち寄った際に、
    門に榎の大樹があり、太子は「樹がまるで室のようであり、
    これなら大雨でも水が漏れない」と述べられ、
    榎室連の姓を授けられたとの伝承が残されています。
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    手水舎には龍身の手水鉢が置かれています。
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    鳥居の正面には稲荷社が位置しています。
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    稲荷社の前に燈籠が建っていて、舞殿から拝殿・本殿へと続いています。
    舞殿と本殿は、昭和36年に修理が行われました。
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    拝殿
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    本殿
    現在の本殿は、規模が縮小されて今でも仮本殿とされています。
    邇邇藝命(ににぎのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)・
    大雀皇子命(おおさざきのみこと=仁徳天皇)・迦具土命(かぐつちのみこと)
    の四神が祀られています。
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    本殿の左側には住吉社が祀られています。
    下津屋は古くから木津川の舟運の津として発達した集落と考えられることから、
    津を守護する住吉神社を祀ったと考えられます。
    室城神社には、かって御幣座、北座、南座と三座の宮座があり、それぞれ祭祀を司っていました。
    木津川改修工事で、木津川の流路が下津屋を南北に分断したため、
    祭神を分神し、対岸の上奈良村(現・八幡市)に御園神社に祀られるようになり、
    獅子を譲り受けました。
    以後、御園神社の祭儀は南座が司るようになりました。
    御幣座と北座は神輿を譲り受け、現在では下津屋全体で奉祭するようになりました。
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    神社に隣接した池には大きな鯉が泳いでいました。

    室城神社から第二京阪道路の下をくぐって浄安寺へ向かいます。
    続く

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    室城神社の先で道路はほぼ直角に曲がり、
    その先の四ツ角を左折すると野菜の洗い場があります。
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    野菜の洗い場の前で道路は、Y字路となり、斜めに右側へと曲がって行くと
    第二京阪道路の下をくぐります。
    くぐった左側の大きな建物は病院です。
    病院の横を通り過ぎた所が四ツ角で、右手に見慣れない風力発電の風車が見えます。
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    大きなプロペラと違い、効率は良いのだろうか?振動や音はどうなんだろう?
    と想像してしまいます。
    四ツ角まで戻り、右側に曲がると「この先通行できません」との注意書きが
    ありますが、歩いて通るには問題ありません。
    曲がりくねって大松寺へと向かいます。
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    大松寺の山門の横に神牛石神社(しんぎゅうせきじんじゃ)があり、
    神牛石が祀られています。
    神牛石は、牛がうずくまる形をした黒色の大きな石で、
    延宝4年(1676)に記された「椏本八幡宮(あてもとはちまんぐう)縁起」に
    「三福寺に昔より大石があって、神牛石といわれていた。
    黒色の石で形は牛に似ており、天下に異変のある時は、必ずこの石より
    汗のごとく水が滴り落ちる」と伝えています。
    文化9年(1812)に記された「神牛石縁起」には、「神牛石は神代の異物で、
    その始めを知る人は稀である。
    年を経て、この石の所在が分らなくなっていたが、寛保2年(1742)8月23日、
    三福寺境内の蓮池の跡から見つかって掘り出し、この日を例祭日とした。」
    とされています。
    神牛石は、椏本八幡宮の神宮寺であった三福寺の庫裏に安置されていたのですが、
    明治初年に三福寺は廃寺となり現在地に神牛石神社が建立されました。
    牛を飼育する農家が神牛石講を結成し、維持されるようになりました。
    春と秋の例祭日には、農耕牛の疫病除けのお札を授かりに、佐山やその近郊の
    牛が集まり、当日は露店が出て賑わいました。
    しかし、農業の機械化により、牛を飼育する農家が減少するに伴い、
    講は解散され佐山自治会が管理を行うようになり、
    昭和62年からは大松寺に移管されました。
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    参道の両側には三基の愛宕灯籠が設置されています。
    この燈籠は、元禄12年(1699)に村の辻々に建てられたのですが、
    昭和40年代になって自動車の通行に支障があるとして現在地に移されました。
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    大松寺は、曹洞宗興聖寺派の末寺で、仏中山大松寺と号します。
    南北朝時代の正慶元年(元弘2年・1332)に創建されたと伝わります。
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    本尊は聖観音菩薩立像で、「金縛りの観音」との伝承が残されています。
    「ある日、大松寺に泥棒が入り、和尚の足が不自由なことを幸いに、
    和尚の目の前で手当たり次第に什器などを風呂敷に包みだしました。
    和尚は観音菩薩に祈願して空呪(くじ)を切ったところ
    泥棒は身動きができなくなったと云う。
    和尚に諭され、罪を悔い改めた泥棒は、改心を誓い泣きながら帰った」
    と伝わります。
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    本堂
    明治初年に布告された神仏分離令により、雙栗神社(さぐりじんじゃ)
    が所蔵していた大般若経600巻が大松寺に移管されました。
    大松寺では、1月22日に大般若経の法要が営まれています。
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    茶室でしょうか?
    大松寺から元来た道を戻り、左折したT字路を左折した先に大光寺があります。
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    大光寺は、浄土真宗興正派の末寺で、戦国時代の永正元年(1504)に
    浄土真宗寺院として、僧・良意によって開基されました。
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    本堂は平成2年に解体修理が行われました。
    本尊の阿弥陀如来立像が安置されています。
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    解体修理で降ろされた鬼瓦には天文4年(1739)の銘が刻まれて
    いたそうです。
    大松寺の先は左に曲がっていて、その先のT字路を左折すると浄安寺に出ます。
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    浄安寺の山門前にある地蔵堂は、平成5年に再建されました。
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    六体の地蔵像は、江戸時代に木津川右岸の浜合にあった子墓の入口に
    安置されていました。
    明治維新後、新政府により、親と子を区別して葬るのは良くないと戒められ、
    子墓から親墓に移葬された後に、浄安寺境内に地蔵堂が建立され、
    地蔵像が祀られるようになりました。
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    浄安寺は、寺伝によると平安時代の天喜元年(1053)に僧・仁海によって
    創建された浄福寺が始まりとされています。
    天治元年(1124)に椏本八幡宮の神宮寺となり、
    元弘元年(1331)に勅願寺になりました。
    天正元年(1573)に宇治平等院の玄誉徹公(げんよてっこう)によって中興され、
    王親町天皇(おうぎまちてんのう)から
    国隠山快楽院(こくおんざんけらくいん)浄安寺の寺号と勅額を賜ったと
    伝わります。
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    観音堂は、椏本八幡宮の神宮寺・浄福寺の観音堂を昭和60年に修復されました。
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    安置されている聖観音菩薩立像は像高142cmで、平安時代後期・
    安阿弥(快慶)の作と「椏本八幡宮縁起」に記されています。
    平成9年に久御山町の文化財に指定されました。
    残念ながら厨子は閉じられていますので、見ることはできません。
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    代わりと言っては失礼かもしれませんが、山門近くに観音像の石仏が建てられ、
    その横の石標には般若心教が刻まれています。
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    本堂
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    鐘楼
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    初代梵鐘は、昭和8年に鋳造されましたが戦時供出され、昭和41年に同じ形、
    重量も同じ570kgで再度鋳造されました。
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    庭園
    境内一円には200種を超える椿が植えられています。
    3月1日から4月15日までの期間、本堂を会場に「椿展」が開催されます。

    府道を右折して雙栗神社(さぐりじんじゃ)へ向かいます。
    続く

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    浄安寺から府道を東進するとセブンイレブンがあり、角の信号で府道を横断し、
    その先に雙栗神社(さぐりじんじゃ)の一の鳥居が建っています。
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    この鳥居は、元禄15年(1702)に建立された物で、高さ6.5m・幅5.5mあり、
    国の有形文化財に登録されています。
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    鳥居をくぐり参道の先、左右に大きな石灯籠が建っています。
    参道はその先で、T字路になって拝殿へと向かうのですが、
    そのまま通り過ぎた所に「御厨(みくり)池旧跡」と刻まれた石柱が建っています。
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    禁裏の鯉の飼養池である「 狭山江御厨( さやまえのみくりや )の跡と思われます。
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    少し戻って参道を北進すると両側に燈籠が建っていますが、
    これらも佐山村の辻々に建てられていたものでしょうか?
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    燈籠の先に手水舎があり、その背後に社務所があります。
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    手水舎の反対側に、古井戸がありその横には「雙栗神水」と刻まれています。
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    その先に石橋が見られますので、この井戸からの水路があったと思われます。
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    割拝殿に戻ります。
    割拝殿は、江戸時代の天明5年(1785)に建立された物で、
    国の有形文化財に登録されています。
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    拝殿内部には、過去に奉納されていた相撲の写真が飾ってあります。
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    歴史の有りそうな絵も掛けられています。
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    割拝殿を抜けて拝所へと向かいます。
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    拝所は、江戸時代後期(1751~1830)の建立で、間口は2.4mあり、
    上部には彩色が施されています。
    拝所と玉垣は、国の有形文化財に登録されています。
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    本殿は、正面に向拝を付けた三間社流造で、室町時代後期の明応3年(1494)に
    再建されたと伝わり、昭和55年~56年にかけて改修工事が行われました。
    檜皮葺(ひわだぶき)の葺替と、「花と鳥」「鹿と紅葉」等の彫刻などに
    施されている彩色の塗り替えなどの工事が行われました。
    本殿は、明治40年8月に国宝に指定されましたが、
    戦後に重要文化財に変更されました。
    祭神は、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)・素盞鳴命(すさのおのみこと)・
    事代主命(ことしろぬしのみこと)・品陀別尊(ほむだわけのみこと)・
    比大神(ひめのおおかみ)・息長帯日命(おきながたらしひめのみこと)・
    大雀命(おほさざきのみこと)の七神と椏本八幡宮が祀られています。
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    蟇股(かえるまた)
    上「鹿と紅葉」と下「花と鳥」
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    脇障子-右
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    脇障子-左
    脇障子の上部には「りすとぶどう」をあしらった精巧な彫刻が
    施されています。

    雙栗神社の所在地は、佐山双栗で、双栗神社とも記されています。
    社名の由来には諸説がありますが、羽栗郷(佐山村)と殖栗郷(えくり・佐古村)
    の両郷に祀られていたため「双栗」と名付けられたとされています。
    また、古代豪族「羽栗」氏の祖神を祀った氏神であったことから羽栗が
    雙栗に転訛したとも伝わります。(雙は双の古字体)
    平安時代の貞観元年(859)に従五位下の神位が授けられたとの
    「三代実録」に記録が残されています。
    延長5年(927)に記された「延喜式神名帳」には、山城国久世郡の
    「雙栗神社三座」との記載が見られます。
    その後、石清水八幡宮の分霊を祀ったことから「椏本(あてもと)八幡宮」
    と呼ばれるようになりました。
    「椏本八幡宮縁起」によると、平安時代の天治2年(1125)に大きな椏の木の根元に
    八幡宮を勧請したことに始まるとされています。
    その後、応保2年(1162)に勅使が立てられ、勲一等を受け椏本一品八幡大菩薩と
    号し、神田を賜ったと記されています。
    鎌倉時代から江戸時代には石清水八幡宮の影響下に入り、八幡宮領となりました。
    明治15年(1882)、椏本八幡宮から旧社名・雙栗神社に戻されました。

    また、宇治田原町岩山に同町屈指の古社である雙栗天神社があります。
    同町岩山は、古くは神の降臨地とされ、この地から、佐山へ分神勧請された
    であろうと考えられています。
    平安時代の仁平2年(1152)、如一上人は八幡宮神輿の御正体を造ったことに伴い、
    同町三郷山の遥拝所(御旅所)への御幸が始まったとされています。
    三郷とは、羽栗郷、殖栗郷、拝志郷(ハヤシ・林村)のことで、雙栗神社はかって
    この三郷の鎮守社でした。
    この御幸は、仁平2年から室町時代の文亀年間(1501~04)まで
    行われていたそうです。
    同町三郷山には、現在も久御山町の飛地があります。
    三郷山は神の降り立ち給う山とされ、聖なる山に降臨する神を迎えに
    行くための御幸であったと考えられています。
    悲しいことに現在の三郷山への整備された登山道はなく、
    中腹には城南衛生管理組合のゴミ埋め立て処分場が建設されています。
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    本殿の右奥に稲荷社の祠があり、その背後には御神木のクスノキが聳えています。
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    京都の自然200選・町の天然記念物に指定され、樹高約30m・幹回り約5m35cm、樹齢400~500年と推定されています。

    満願寺へ向かいます。
    続く



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    雙栗神社の社務所横の鳥居を出て、道路を横断して団地の中を進むと
    自動車通行不可の橋が架かっています。
    橋を渡った先に満願寺があります。
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    満願寺は当初、平安時代の延暦2年(783)に最澄によって開基され成就坊と
    称された天台宗の寺院であったとする説と、大同年間(806~9)に
    やはり天台宗寺院として開基されたする説があります。
    安土桃山時代の永禄12年(1569)に僧・宗意によって中興され、
    慶長年間(1596~1611)の頃に浄土宗に改められました。
    昭和36年の第二室戸台風で、本堂は柱だけが残されて飛ばされました。
    現在の本堂は、その後再建された物です。
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    明治時代まで本尊であり、現在は客仏になっている薬師如来坐像は
    像高103.3cmで、平安時代後期の作とされ、
    久御山町の文化財に指定されています。
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    地蔵の祠
    満願寺から西林寺へ向かいます。
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    西林寺は、安土桃山時代の天正11年(1583)に周善上人によって
    開基されたと伝わります。
    浄土宗の寺院で山号は宝池山です。
    明治初年に廃寺となった雙栗神社(さぐりじんじゃ)の神宮寺であった
    薬蓮寺を吸収合併し、阿弥陀如来坐像二軀が遷されました。
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    明治12年に薬師堂が建立され、薬師如来坐像と共に薬蓮寺から遷された
    阿弥陀如来坐像二軀が安置されました。
    しかし、昭和36年の第二室戸台風でイチョウの木が倒れ、
    薬師堂はその下敷きになり、仏像と共に壊れました。
    昭和48年に薬師堂は再建され、京都国立博物館の配慮があり、
    仏像の復元も行われました。
    現在、阿弥陀如来坐像二軀は京都国立博物館の所蔵になっています。
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    鐘楼
    梵鐘の二代目は文政元年(1818)に鋳造されたのですが、
    戦時供出され、三代目が昭和52年8月に再鋳されました。

    西林寺から川沿いの道に出て、団地の横を通り過ぎT字路を右折して、
    突き当たりを道なりに右に曲がり、一筋目を左折した先に善林寺があります。
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    善林寺は、安土桃山時代の天正2年(1574)に西念上人によって
    開基されたと伝わります。
    浄土真宗の寺院で、享保4年(1719)に西本願寺より宝樹山善林寺の寺号を
    賜ったとされています。
    山門は昭和51年に再建され、解体された旧山門からは
    天明元年(1781)の棟札が発見されました。
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    文化2年(1805)に本堂が再建され、明治6年に佐古尋常小学校が建設されるまで、
    仮校舎として使用されました。

    善林寺の直ぐ先に稱名寺(しょうみょうじ)があります。
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    稱名寺が創建されたのには伝承が残されています。
    『諸国行脚を続けていた西誉直往大徳は、ある日京都日野の里(伏見区)で
    一宿の志を受けました。
    その家の持仏堂には行基菩薩の作と伝える仏像が安置されていて
    「この仏像は先祖が鴨長明より賜ったもですが、然るべき所で祀っていただきたい」と譲り受けました。
    直往大徳は、仏像を背負って天文3年(1534)に佐古村を訪れ、
    吉岡氏宅でしばらく休んだ後、仏像を持ち上げようとしましたが、
    仏像は全く動かないため、佐古村は有縁の地なりと吉岡氏に
    寺の建立と仏像の安置を依頼しました。』
    吉岡氏によって、直往大徳を開基として建立されたのが称名寺で、
    その仏像は本尊として安置されている阿弥陀如来坐像です。
    この像は、平安時代後期の作とされ、像高は54.51cmで、
    行基の作かどうかは不明ですが久御山町の文化財に指定されています。
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    本堂
    本尊の右側には像高138cmの薬師如来坐像は、
    明治初年に廃寺となった法蓮寺の本尊で平安時代後期の作とされ
    大正6年に国宝に指定されましたが、戦後重要文化財に改められました。

    本尊の左側には、像高89.3cmの大日如来坐像が安置されています。
    この像は、明治初年に廃寺となった東明寺の本尊で、
    平安時代後期の作とされています。
    平安時代の3軀の仏像が並ぶ光景は荘厳で、特に薬師如来坐像は偉観であり、
    また穏やかな表情に見とれてしまいます。
    東明寺からは「東明寺文書」も引き継がれました。
    この文書は、南北朝時代~江戸時代に亘る142点で、殆どが
    寺の運営に関するもので、京都府の有形文化財に登録されています。
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    境内の奥にある弁財天堂は、昔、現在の佐古公民館付近に大きな池があって、
    そのほとりにが祀られていた弁財天が安置されています。
    佐古の大火事で、弁天堂が焼けてしまい、称名寺境内に堂を建て
    弁財天が祀られるようになりました。
    今の堂は一間四方で、その中に厨子があり、極彩色の美しい
    弁財天が祀られています。
    7月14日前の日曜日に法要が営まれています。
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    山門の脇にある地蔵堂

    稱名寺に隣接している若宮八幡宮に向かいます。
    続く

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    若宮八幡宮は、既に紹介した久御山町西部の大藤神社近くにも同名の神社があり、
    隣接している淀と合せて三社めになります。
    こちら八幡宮は、古記録が焼失や流失したため詳細は明らかではありませんが、
    平安時代の天徳3年(959)に創建されたと伝わります。

    立地する佐古村は、旗本・蒔田領と淀藩領に分割支配されていました。
    江戸時代の明和4年(1767)まで、八幡宮の双方の供物は、
    旗本領の法蓮寺の住職が献じていました。
    翌年淀藩領の鏡餅を住職が神前から引き下げた事が発端となり、
    この神社の鍵の所属、つまり祭祀権をめぐってたびたび論争がありました。
    旗本領の法蓮寺と淀藩領の東明寺の双方が鍵を持つことで決着しました。
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    境内に入ると道祖神が祀られています。
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    拝殿の手前には天満宮が祀られています。
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    拝殿には、明治時代に奉納された絵などが掛けられています。
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    本殿は覆屋の中にあるため、詳細は確認できませんが、
    室町時代の用材が多く用いられ、戦国時代の永正6年(1509)屋根を
    葺き替えた事が記されています。
    当時の屋根は檜皮葺でしたが、現在は銅版による仮葺になっています。
    天文19年(1550)~延享5年(1748)にかけての6枚の棟札が発見され、
    村人に守られ修理が行われてきたことの証となりました。
    祭神は、応神天皇神功皇后(じんぐうこうごう)・
    比売大神(ひめのおおみかみ)が祀られています。

    若宮八幡宮では、毎年9月14~5日に放生祭(千灯万灯・せんとうまんとう)が
    行われています。
    五穀豊穣や多幸を願い、生き物の鎮魂を祈る行事で、4~500枚の皿に灯が
    ともされ、歳の数だけ神社の周囲を回るところから一般
    に「おせんど」と呼ばれています。
    もともとは2枚重ねのカワラケに菜種油を入れ、灯芯を浸して火をともしていた
    のですが、近年は灯芯の入手が困難になり、ろうそくが使われています。
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    若宮八幡宮から通りを挟んだ西側に、ブロック塀で囲われた敷地に古い石塔が
    集められ「野神」として祀られています。
    6月5日には、全国的にもめずらしいとされる神事が行われます。
    午前零時に灯かりを消した暗闇の中で、音を立てず、声も出さない、
    暗闇の奇祭と呼ばれています。
    5日午前零時、宮司を先頭に宮総代たちが供物をささげて野神に社参します。
    街灯などは覆って暗くし、宮司は声を出さずに祝詞を奏上します。
    柏手も音を立ててはいけないので、両手が合うところで止められます。
    暗闇の中でおこなわれる神事は30分ほどで終わり、参列者はちまきだけを
    荷って引き揚げます。
    このちまきは、佐古自治会全戸の数に切って、夜明けまでに各戸の入口に
    置かれます。
    この場合も、声は出せず、人に出会っても挨拶を交わすことはできない
    しきたりになっているそうです。

    釈迦堂に向かいます。
    続く

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    稱名寺の前の通りを北へと進むと、広い四つ角に出ます。
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    向かいの角には、久御山町ふれあい交流館があり、その中に図書館もあります。
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    四つ角の先に水道のタンクがあり、その先に水路に架かっている
    「たまきはし」を渡り、二筋目を右折します。
    右折した先の細い路地を右折するとクランク状に曲がっていて、
    その角に釈迦堂があります。
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    釈迦堂縁起によると「鎌倉時代の弘安元年(1278)、東福寺の普門仏心禅師に
    帰依した東又左衛門入道普善らは、禅師の勧めを待たず、三間五間の堂を建立し、
    春日作の釈迦像と達磨像を安置して、将来禅学を志す者のための観法
    修する道場となす」とあります。
    現在のお堂は昭和56年に、境内が整備され、石垣を積んで新しく建立された
    のですが、随分小さくなりました。
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    堂内の釈迦像と達磨像
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    堂内の右側には石仏が安置されています。
    釈迦堂から北に進むとT字路になり、左折した先の右側突き当たりに
    光福寺があります。
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    光福寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、山号を智相山と号します。
    光福寺は、江戸時代の享保15年(1730)に現在地に移転した事が
    「光福寺再建願状」に記されていますが、それ以前の詳細は不明です。
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    寛延4年(1751)に、再建工事が認可され、
    宝暦12年(1762)に本堂が再建されました。
    昭和36年の第二室戸台風で鐘楼が倒壊し、その後は再建されていないようです。
    現在の本堂は、 文化6年(1809)に拡幅工事がなされたものを、
    平成2~3年にかけて解体修理が行われたものです。
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    境内には十三重石塔があり、花梨の木は大きな実を付けていました。
    光福寺から元来た通りまで戻り、右折した先に北向き毘沙門堂があります。
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    毘沙門天は、北方守護神として崇敬されていて、北方を背にして南方を
    睥睨(へいげい)するのが一般的ですが、こちらの毘沙門堂は
    北向きに建てられています。
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    珠城縁起」によると、「鎌倉時代の元宏元年(1331)9月、
    楠木正成は勅により河内国より笠置の皇宮に参向する途中、
    朝敵追討を祈願するために珠城神社に拝礼した後、
    武運長久のため毘沙門天を刻み、
    一社を建て「北向きの毘沙門天」と称した」と伝わります。
    残念ながら、毘沙門天像が納められた厨子の扉は閉められて
    秘仏とされていますが、岩盤の上に立つ像高93.5cmの
    一木造りの像で彩色されているそうです。
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    お堂の前には石仏などが安置されています。
    敷地には楠木正成にちなんでクスノキが植えられています。
    毘沙門堂の向かいに「伝承 和気清麻呂薨去(こうきょ)地」
    との石柱が建てられています。
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    毘沙門堂から北側の地名が「久御山町市田和気」であり、
    和気清麻呂との深い由縁を感じさせます。
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    毘沙門堂から先に、角に燈籠が立つT字路を左折した先に珠城神社があります。
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    奈良市にある垂仁天皇の宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では
    纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)で、珠城神社は宮城跡とされています。
    珠城神社縁起によると、「山代大筒城真若王(やましろおおつつきまわかのみこ)
    が垂仁天皇崩御の後、その神霊をこの地に祀ったのが始まりとされています。
    垂仁天皇の宮が珠城宮だったことから珠城神社と称したと伝わります。
    平安時代の延暦18年(799)、和気清麻呂の没後、
    藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)が勅使となり護法神社として、
    珠城神社に並べて社殿が造られました。
    その後、僧・行賀により神宮寺として護王寺を建立し、
    本尊として薬師仏を安置しました。
    治承4年(1180)、兵火により珠城神社と護王寺は焼失しましたが、
    文治元年(1185)に源頼朝によって再建されました。
    しかし、室町時代の天正元年(1573)、宇治・槇島(まきしま)の戦いで
    再び焼失してからは再建されず、江戸時代には祭神は
    雙栗神社(さぐりじんじゃ)へ預けられることになりました。
    享保4年(1719)に市田村の氏子は、神輿を造営して雙栗神社の神事に
    加わった記録が残されています。
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    昭和42年(1967)10月、ようやく珠城神社は再建されました。
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    拝所には無料のおみくじが置かれていて“凶”を引いてしまいました...。
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    本殿
    祭神は、活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこ・垂仁天皇)と
    和気清麻呂が祀られています。
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    本殿の右横には、右側に稲荷社(下)と左側に皇大神宮社(上)が祀られています。
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    樹木の幹周りの太さが歴史を感じさせます。
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    珠城神社の本殿の左側から出ると水路沿いの遊歩道に出て、
    その先の広い通りを第二京阪道路の下をくぐって常盤神社へ向かいます。
    続く


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    珠城神社から水路沿いの道に出て、珠城運輸横の広い通りを西に進み、
    国道1号線を超えて用水路に沿って斜め右に曲がり、
    日鉄萬金属の手前で左折します。
    突き当たりがT字路になりますので左折し、
    クランク状に曲がった所に常盤神社があります。
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    鳥居の前、駐車禁止と書かれていますが、おそらく地元以外の人が
    立ち寄ることは無いであろうと思えるほど細い道を入込んだ所にあります。
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    鳥居をくぐった先でUターンすると正面に舞殿そして本殿が建っています。
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    舞殿の手前に石垣が高く積まれ、その上に蔵王権現社の小さな祠が
    祀られています。
    蔵王権現社では、毎年3月6日に春祭りが営まれ、
    高さ15cm余りの円錐形の握り飯に細い藁縄(わらなわ)を巻いた
    “鉢巻飯”を権現社に2個、本社と末社及び地蔵堂に1個ずつ供える神事で、
    300年余り継承されています。
    鉢巻飯は「人間は常に頭に鉢巻を締めている気持ちで、
    額に汗して仕事に精を出すことを忘れるな」との教訓を示されたと伝わります。
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    常盤神社の創建や変遷の詳細は不明で、江戸時代の寛永13年(1636)から
    幕末までの記録しか残されていません。
    常盤神社はかって、境内に橋本坊の末寺である真言宗寺院の長福寺と地蔵堂、
    蔵王権現社が建立され、神社は祇園精舎の守護神とされる牛頭(ごず)天王
    祭神とする神仏混交の神事が行われていました。
    明治初年の神仏分離令により、長福寺は廃寺となり、上地によって境内地は1/4に
    縮小され、牛頭天王社から野村神社と改められました。
    長福寺の本尊であった大日如来坐像、釈迦如来坐像は廃寺後、
    放置されていましが、明治22年に修復され称名寺に移安されました。
    地蔵堂は、拝所を西向きに変えて神社と分離し、
    明治6年(1873)に隣接する称名寺に移築されました。
    明治14年3月18日に常盤神社と改称され、素戔嗚尊(すさのをのみこと)と
    武甕槌命(たけみかづちのみこと)が祭神とされました。
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    神社の建物は、平成5年秋から約1年間かけて修復工事が行われ、
    社殿の朱色もまだ鮮やかなように見えます。
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    「境内には若宮八幡社(5尺四方)、蔵王権現社(2尺四方)、
    地蔵堂(1間四方、瓦葺)、舞殿(3間×1間半)、鳥居があった。」
    との資料から本殿横に祀られているのは、若宮八幡社でしょうか?
    何も表記がありません。
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    拝所の横に建っています。
    どなたが祀られているのか不明です。
    納札所のようにも思えます。
    常盤神社では、毎年10月16日に秋祭りが営まれ、頭芋を台にした竹串に
    栗・柚(ゆず)・柿を刺したもの36本を作り供えられます。

    神社の鳥居前から少し西に進むと称名寺への入り口があります。
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    白い玉石が敷かれた通路の先に山門があります。
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    山門
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    本堂
    称名寺の創建や変遷の詳細は不明ですが、近世初頭に空誉上人によって中興され、
    浄土宗に改められました。
    現在の本堂は、平成6年から1年余りの期間をかけて解体され、再建されました。
    明治6年に移築された地蔵堂は、明治17年(1884)に再建されたのですが、
    今回の新築工事により地蔵堂は廃され、
    地蔵尊は本堂内に安置されるようになりました。

    荒見神社へ向かいます。
    続く。


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    称名寺から西に進み、四つ角を左折して直進すると、
    用水路沿いの斜めの道に突き当たります。
    斜めの道を右折し、直進すると両側にグランドがあり、
    その先でT字路に突き当たります。
    用水路沿いに進み、一筋目を右折し、その先のT字路を左折した先に
    田井公会堂があり、その横に荒見神社の鳥居が建っています。
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    鳥居をくぐった右手に、万葉歌碑が平成3年6月に建てられました。
    「巨椋(おほくら)の入江響(とよ)むなり射目人(いめひと)の
    伏見が田井に雁(かり)渡るらし」と田井にちなんだ歌が詠まれています。
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    参道を進んだ先に社務所がありますが、安政4年(1857)の田井村寺社明細帳には
    「真言宗・無本寺薬師堂」との記述が見られます。
    明治維新までは、境内に薬師堂、お旅所に地蔵堂がありましたが、
    神仏分離後に薬師堂は移設・改築されて社務所になりました。
    地蔵堂は廃され、本尊の地蔵菩薩像は次に伺う円福寺に移安されました。
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    社務所の前に祀られているのは、弘法大師の石像でしょうか?
    神社に祈願して病気が治った信者が寄進したとされているのですが、
    長年の風雨にさらされ、弘法大師像と見分けるのが難しくなっています。
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    石像の隣には小さな祠があります。
    厳島神社でしょうか?何も標記がありません。
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    社務所の先に、荒見神社の石碑が建てられています。
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    石碑の前で直角に左側に曲がると前方に割拝殿、そして本殿へと続きます。
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    割拝殿を抜けた右手に天満宮の社殿があり、その前に建つ石灯籠には
    旧社名である「五社大明神」と刻まれています。
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    向拝所は唐破風(からはふ)造りで、境内に厳かな雰囲気を与えています。
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    荒見神社は奈良時代の和銅6年(713)に、「荒海の社・祗(くにつ)の社 
    み名は大歳の神なり」と山城国風土記に記されています。
    平安時代の延長5年(927)に記された延喜式神名帳に、
    「山城国久世郡 荒見神社」とありますが、城陽市富野にも同名の神社が
    あり、二社による論社がありましたが、明治10年(1877)に当社が
    式内・荒見神社と認定されました。
    江戸時代の寛永7年(1630)、木津川の洪水により社殿が流失しました。
    その後、寛文4年(1664)に現在地に社殿が、五社大明神社として造営されました。
    旧鎮座地は、ここより南方向、府道宇治・淀線の南側に西荒見・東荒見の地名が
    残されている付近と考えられています。
    現在の本殿はその時のもので、五社の祭神が祀られています。
    春日大社(武甕槌命・たけみかづちのみこと)、
    上賀茂神社(別雷大神・わけいかづちのおおかみ)、
    稲荷大社(倉稲魂命・うがのみたまのみこと)、
    平野神社、石清水八幡宮(応神天皇)、仲哀天皇。
    明治初年に五社大明神社から、荒見神社に復しました。
    創建当時の荒見神社は、大歳神を祭神としていたようです。
    大歳神は、来方神(毎年正月に各家にやってくる来方神。
    歳徳(とんど)さんとも呼ばれる)、穀物神(年の始めにその年の豊作
    を祈念)、祖霊(家を守ってくれる祖先の霊)とされています。
    その名残なのか荒見神社では、1月15日に左義長(とんど)が行われています。
    門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって
    炎と共に見送る意味があるとされています。
    また、久御山町史によると、社名の荒見とは荒水の転訛で、
    しばしば洪水を被ることから、「水神を祀ったのが当社の起こり」と
    する伝承も残されています。
    久御山はかって、「三年に一度、平年作であれば良い」と言われるほど
    洪水の多発地帯でした。
    荒見神社は、洪水を鎮め、五穀豊穣を願って創建されたのだと思われます。
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    本殿の左側に立つ御神木。
    堂々とした幹周りです。
    田井公会堂の前の道を進んだ先に円福寺があります。
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    円福寺は、寺伝によると平安時代の天長元年(824)に弘法大師によって
    真言宗寺院として創建されました。
    江戸時代の寛永元年(1624)に発生した大洪水により、
    堂宇と仏像の全てが流失しました。
    荒見神社が流失した年代と微妙に異なるのが気になります...。
    その後、阿弥陀如来を本尊とし、観音菩薩・勢至菩薩を脇侍とする
    浄土宗の寺院として再建されました。
    現在の本堂は、入母屋造り、書院を併設した50坪余りの建物で、
    平成7年に新築されました。
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    円福寺の第21世住職の釜屋了貫は、神奈川県厨子で竹久夢二と知り合い、
    夢二は大正5年から昭和3年にかけて度々逗留しました。
    夢二の作品の中に、円福寺で制作されたものがあるのかもしれません。
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    円福寺の先に専念寺があります。
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    専念寺は、室町時代の天文18年(1549)に御牧勘兵衛の父浄念によって、
    京都市東山区の一心院の末寺として創建されました。
    御牧勘兵衛の父・摂津守益景は、山城地方に浄土宗の布教を務めた
    縁誉称念上人に深く帰依し、法名を浄念としました。
    浄念は、一心院の開基・称念に帰依し、浄土宗捨世派の専修道場としました。
    寺伝によると、豊臣秀吉が造営した聚楽第の御殿の一部を、
    天正15年(1587)に御牧勘兵衛が移築したと伝わります。
    御殿が樫の木で造られていたことから、「樫寺」と呼ばれたとも伝わります。
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    専念寺も洪水で被害を受け、江戸時代に再建されましたが、
    現在の本堂は歴史を感じさせない近代的な建物になっています。
    本尊は、鎌倉時代作の阿弥陀如来立像で、絹本薯色阿弥陀三尊来迎図
    (掛軸装・室町時代)が寺宝として所蔵されています。
    また、本堂に安置されている聖観音像は、「安産に霊験あらたか」
    との伝承が残されています。
    この観音像は、慈覚大師円仁が唐で修行中に刻んだ像で、帰国後文徳天皇の勅に
    よって皇后の安産祈祷を行い、無事に出産されました。
    慈覚大師入滅後、この像は土佐国の堂宇に安置されていたのですが、
    専念寺18世皆誉上人によって修復が行われ、後代住職のために記した
    「観世音縁起」として伝えられています。
    久御山町役場前から京阪淀駅までバスで帰る予定でしたが、
    スーパーイワキの前で下車しました。
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    淀の八大龍王神社のイチョウの木が綺麗に色付いていました。

    次回は京阪電車の「鞍馬・貴船1dayチケット」を利用して貴船神社から鞍馬寺を
    訪ねたいと思います。
    続く


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  • 12/05/16--00:34: 貴船神社-その1
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    叡山電鉄貴船口駅で下車し、鞍馬街道へと出ます。
    この街道は、貴船神社と鞍馬寺の参詣道として、また若狭への交通の要衝として
    古くから開けていました。
    しかし、地元の人によると40~50年前までは、道の真ん中で犬が昼寝を
    しているほど、交通量も少なくのんびりとした風景だったそうです。
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    熊も時々、様子を見に?現れていたそうです。
    俄に訪れた観光ブームで、交通量が急激に増加し、市原から貴船の手前までは
    山と鞍馬川に挟まれた狭い谷筋を通ることから、交通渋滞が慢性的になり、
    平成14年、この間にトンネルが新設され、市原バイパスが開通しました。
    計画では、バイパスは鞍馬温泉まで延伸されるそうです。
    ついでに花背峠もトンネルが造られると、「トンネルを抜けると雪国だった」
    の光景に出会えるかもしれません。
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    街道から貴船神社へ向かうのに渡る梶取橋(かじとりはし)は、
    平成7年に拡張され、鳥居が建つ位置と参道が少しずれています。
    梶取橋は、昭和10年(1935)の豪雨で梶取社と共に流され、2年後に復旧されました。
    拡張された現在の橋は、長さ32m、幅員11mあり、
    神社の入口に相応しい造りで架けられました。
    一の鳥居は、昭和14年(1939)に再建されました。
    社伝では第18代反正天皇(はんぜいてんのう)の時代(約1600年前)に
    浪速(なにわ)の津に黄色い船に乗った神が現れ
    「我は玉依姫(たまよりひめ)なり。
    この船の止まる所に祠を造れば、国土を潤し、庶民に福運を与えん」
    と言われ淀川を遡ってこの地にいたり、鞍馬に向けられていた梶を巧みに操り、
    貴船川を遡るように切られたことから、橋の袂には「梶取社」が祀られ、
    この橋は「梶取橋」と呼ばれるようになりました。
    貴船川を遡った黄色い船は、清水が湧き出る“龍穴”の上に社殿を建て、
    水神を祀り、黄色い船から「黄船の宮」と称されました。
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    梶取社の祭神は、稲荷神の宇賀魂命(うかのみたまのみこと)ですが、
    古くは梶取大神が祀られ、航海や交通安全、人生の進路の守護神として
    信仰されています。
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    叡山電鉄の貴船口駅を見つつ線路をくぐり先に進むと参道は貴船川沿いに続き、
    その先に「蛍岩」があります。
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    平安時代に、宮廷の女流歌人の和泉式部が貴船神社に参詣して恋の成就を祈り、
    歌を詠んだのが、この蛍岩近辺だといわれ、現在でも蛍の名所になっています。
    「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」
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    やがて、参道は貴船川を渡ります。
    橋の名は、「梅ノ宮橋」で付近に梅宮社があり、句碑が建っています。
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    「花ごもり 実の二つみつ 梅乃宮」
    この句の作者は句碑には刻まれていませんが、「花ごもり」とは樋口一葉の造語で、明治27年(1894)に発行された同名誌から採られたものと思われます。
    祭神は木花咲耶姫命(このはさくやひめのみこと)で、安産の神とされています。
    貴船の谷には貴船口から三町(約327m)ごとにお宮があります。
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    次の橋は「蛇ヶ谷橋」ですが、その名称から貴船川が“暴れ川”だったと
    想像されます。
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    橋を超えた対岸に白石社があります。
    歌の祖神とされる下照姫命(したてるひめのみこと)が祀られていますが、
    付近に祠へと渡る橋はありません。
    「お参りしたければ、冷たい川を渡ってでも来なさい」とでも言われているように
    凛として佇んでいるように見えます。
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    先には、貴船料亭街の玄関口に当たる「べにや」があり、その先に
    「烏帽子岩」があります。
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    昔は参拝者が水を浴びて身を清めた所であり、また、大宮人が烏帽子を下して
    この岩の上に置き身を清めた所でもあります。
    今は、対岸にあるので水を浴びなくても良いようです...?
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    「烏帽子岩」の先に鞍馬寺西口があります。
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    二ノ鳥居は、昭和64年(1989)に再建されました。
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    鳥居の左側には樹齢700年と伝わる御神木の杉の巨木が聳えています。
    幹に口のようなものが見え「ようこそ」と歓迎してくれているように
    見えます。
    鳥居の右側に白髭社があったのですが、写真を撮り忘れました。
    祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)で、「古事記」及び「日本書紀」の
    天孫降臨(てんそんこうりん)の段に登場する国津神、つまり地上の神様です。
    天孫降臨とは、天照大神の命を受けた邇邇藝命(ににぎのみこと) が、
    葦原の中つ国(地上)を治めるために高天原(天界)から日向(ひむか)国の
    高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。
    邇邇藝命は、天の八衢(やちまた)と呼ばれる、いくつにも分かれている道で
    立ち往生していたところ、猿田彦命が邇邇藝命の道案内をするために
    現れたとされています。
    その神の鼻の長さは七(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、
    目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように
    照り輝いているという姿から天狗の原形とする説があります。
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    両側に春日燈籠が並ぶ石段の先に貴船神社の本宮があります。
    続く

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    春日燈籠が並ぶ石段の先に神門があります。
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    神門をくぐると豪華な社殿が眼に飛び込んできます。
    朝が早いせいか、手水舎はまだ清掃されていました。
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    手水舎の横に建つ白馬と黒馬の神馬像は、絵馬発祥の起源とされています。
    平安時代の弘仁9年(818)、干ばつが続いたために嵯峨天皇は、
    勅使を遣わされ降雨の祈祷をされました。
    以後、雨乞いの祈祷には黒馬を、雨止みの際には白馬(後に赤馬)が
    奉納されるようになりましたが、いつごろか馬の絵を描いた
    「板立馬(いたたてうま)」が奉納されるようになりました。
    それが現在の絵馬の起源とされています。
    貴船神社の絵馬祈祷は、本宮では「諸願成就」、中宮は「縁結び」、
    奥宮は「心願成就」に霊験あらたかとされています。
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    本殿の前には、枯れた事が無いと伝えられる御神水が谷から流れ出ています。
    そこから齋庭(ゆにわ)に水が引かれ、遣水におみくじを浮かべると、
    文字が浮かび上がります。
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    本宮の祭神は、高龗神(たかおかみのかみ)で、龗(おかみ)とは、
    龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていました。
    創建の詳細は不明ですが、現在の奥宮に創建されました。
    平安時代の弘仁9年の文献に「貴布禰神 」との初見があり、大社に列せられ、
    同年に従五位下の神階が授けられました。
    永承元年(1046)、洪水により社殿が流損したため、天喜3年(1055)に現在地に
    本宮が遷され、元の地は奥宮として祀られるようになりました。
    室町時代の保延6年(1140)に、神階の最高位である正一位が授けられましたが、
    大永7年(1527)に社殿が焼失しました。
    その後、天保年間(1830~43)に再建され、現在の社殿は平成24年5月に
    解体修理が行われたものです。
    明治4年(1841)、官弊中社に指定され「貴船神社(きふねじんじゃ)」と
    改められました。
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    境内には御神木の桂の木が聳えています。
    樹齢約400年、樹高約30mの大樹で、根元から幾つもの枝が天に向かって伸び、
    八方に広がっています。
    貴船は古くは「気生嶺」「気生根」とも記載されていて、大地のエネルギー
    「気」が生ずる山、「気」の生ずる根源とされていました。
    この御神木は、御神気が龍の如く大地から勢いよく立ち昇っていく姿を
    象徴しています。
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    御神木の奥に齋館があります。
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    齋館の前に、石庭「天津磐境(あまついわさか)」が作庭されています。
    昭和40年に、重森三玲(しげもり みれい)氏によって、古代の人々が神祭りを
    行った神聖な祭場「天津磐境」をイメージして造られました。
    庭全体が創建由縁の黄色の船から、船の形で造られ、左奥に見えるマストに
    見立てた椿の木が配されています。
    この椿の木は神が降臨になる神籬(ひもろぎ)でもあります。
    庭全体が貴船石で石組みされ、数が少なく珍重されている貴船石の保存を
    目的としたものでもあります。
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    奥宮へと続く門の近くに祖霊社があり、氏子や崇敬者の御霊(みたま)が
    祀られています。
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    祖霊社から門の脇を山手に上がっていくと、牛一社があります。
    祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)ですが、
    古伝では牛鬼が祀られていたとも...
    牛鬼は貴船明神が丑の年、丑の月、丑の日、丑の刻に降臨した際お供した神です。
    牛鬼は仏国童子とも云われ口が軽く、神界の秘密を話し、広めてしまったので、
    貴船明神は怒って童子の舌を八つ裂きにしてしまいます。
    そして貴船から追放され芳野山(吉野山)へと逃げましたが、間もなく貴船に帰り、鏡岩の影に隠れていたところ、3年目にしてようやく貴船明神から許されました。
    仏国童子の死後、その子・僧国童子は父に代わって、貴船明神に怠り無く仕え、
    僧国童子の子・法国童子、法国童子の子・安国童子と明神に仕え、
    以上四代目までは、牛鬼の一族は鬼の姿をしていたそうです。
    五代目からは普通の人間の姿となり、子孫代々繁昌して大明神に仕え、
    祖先を忘れぬ為に名を「舌(ぜつ)」と名乗ったと伝わります。
    舌家の人々は貴船の社家筆頭として活躍した時代もあったそうですが、
    現在貴船には舌家がただ一軒残っているそうです。
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    牛一社から少し上がった所に川尾社があります。
    祭神は、罔象女神(みづはのめのかみ)で、病気平癒の神とされています。
    往古、奥宮の「思ひ川」にあって川水を司る神でしたが、社殿の裏を流れる
    鈴鹿谷の下流に当たる現在地に遷され、川尾社と呼ばれるようになりました。
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    川尾社から少し上がった所に鈴鹿社があります。
    祭神は、大比古命(おおひこのみこと)ですが、もとは社殿裏側の鈴鹿谷上部に
    あり、伊勢神宮の大神を祀ったと伝わります。
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    鈴鹿社の上部は禁足地となっていて権殿が建てられています。
    権殿とは社殿を造営・修理する間、神体を仮に奉安する場所のことで、
    貴船神社でも式年遷宮が行われていましたが、元治元年(1864)に廃されました。
    さらに権殿の上部、貴船山の中腹には三つの岩が重なり、中が空洞で鏡岩と
    呼ばれる磐座(いわくら)があるそうですが、ここも禁足地になっています。
    玉依姫(たまよりひめ)が貴船川を遡ってくるより以前に、貴船明神が丑の年、
    丑の月、丑の日、丑の刻に降臨されたとする岩です。
    貴船神社には、この鏡岩と奥宮の龍穴と二つのパワースポットがあります。
    但し、どちらも立ち入ることはできません。
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    奥宮へと向かう門を出て奥宮へ向かいます
    続く

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    本宮から奥宮への門を出ると、鈴鹿川に鈴鹿橋が架かっています。
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    石段を下って行くと、鳥居が建っていて、それをくぐると車道にでます。
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    車道を遡って行くと、中が空洞になった木を見つけました。
    雷にでも打たれたのでしょうか?
    それでも元気に葉を繁らせています。
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    しばらく歩いた先に中宮である結社(ゆいのやしろ)の入口に着きましたが、
    参拝順は本宮→奥宮→中宮とされていますので奥宮へ向かいます。
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    奥宮の手前に御神木である相生(あいおい)の杉が聳えています。
    樹齢約千年とされ、同じ根から二本の杉が生えています。
    相生は、相老に通じることから、夫婦共に長生きを意味します。
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    相生の杉の脇を上っていくと、二ッ社があり、貴船明神の荒御霊(あらみたま)が
    祀られています。
    右側が私市(きさいち)社で、祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、
    左側は林田社で、祭神は医薬の神・酒造の神とされる
    少彦名命(すくなひこなのみこと)です。
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    「思ひ川」の手前に鳥居が建ち、その先が奥宮への参道になります。
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    「思ひ川」は、奥宮が本社であった頃、参拝者はこの谷川で身を清めた
    禊(みそぎ)の川、物忌(ものいみ)の川でした。
    「おものいみ川」がいつしか「思ひ川」と呼ばれるようになりました。
    「思ひ川 渡れば またも花の雨」高浜虚子の句です。
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    橋を渡った先に「つつみヶ岩」があります。
    高さ4.5m、胴回り9mもある貴船石の巨石です。
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    「つつみヶ岩」の先、杉の巨木が立ち並ぶ参道を進みます。
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    神門の前、夜にはかがり火が焚かれているのでしょうか、
    燃えた跡が下に落ちています。
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    現在は神門をくぐった所で、山水が引かれた清水で身を清めることができます。
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    境内に入って直ぐに目に止まるのが、御神木の連理の木です。
    ウィキペディアでは、「連理木(れんりぼく、れんりぎ)とは、2本の樹木の枝、
    あるいは1本の樹木の一旦分かれた枝が癒着結合したもの。
    自然界においては少なからず見られるが、一つの枝が他の枝と連なって
    理(木目)が通じた様が吉兆とされ、「縁結び」「夫婦和合」などの象徴として
    信仰の対象ともなっている。」と解説されています。
    この御神木は、杉と楓が和合した珍しいものだそうで、大正天皇の貞明皇后も
    大正13年に参拝された時に、この木を賞賛されたそうです。
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    連理の木の袂に日吉社が祀られています。
    祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)ですが、かっては
    大山咋神(おおやまくいのかみ)が祀られ、山の神であり、
    貴船山を守護する神でした。
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    日吉社から右前方に拝殿があります。
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    拝殿の左横に鈴市社があります。
    祭神は、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)で、
    神武天皇の皇后です。
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    拝殿を回りこんで本殿へと向かいます。
    奥宮の祭神は、闇龗神(くらおかみのかみ)で、
    本宮の祭神・高龗神(たかおかみのかみ)と同じ、もしくは一対の神様とも
    言われており、両方共「龍神様」で水を司っています。
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    権地(ごんち)
    現在の本殿は、江戸時代の文久3年(1863)に造り替えられ、旧本殿は京阪
    「東福寺駅」近くの瀧尾(たきお)神社に移築されたとの記録が残されています。
    本殿造り替えの際に、大工が誤ってノミを龍穴に落とすと
    「晴天俄かに墨の如くなり、たちまち竜巻のような突風が吹きすさみ、
    ノミは空中に吹き上げられ屋根に戻された」と伝わります。
    更に、程なくして大工は命を落としてしまったとも...。
    平成24年に解体修理が行われました。
    一度すべて解体し、使える古材は出来るだけ保存し、古い形態のままを将来に
    伝えてゆくのが大切な目的でもありました。
    ただし屋根に関しては、軒付は従来通りの「こけら葺き」とし、
    あとは全面銅板葺きとなりました。
    解体修理にあたり「附曳神事(ふびきしんじ)」が執り行われました。
    「まず本殿の西に手広い菰(こも)を結び付け、氏子一同烏帽子浄衣の白装束で、
    本殿を東の権地(ごんち)に曳き遷す。
    そこで龍穴は自然に菰で覆われる。
    龍穴は人目を忌むから、しめ縄にて菰をくくり、竣工の時、まずそれを解き、
    本殿を旧位置(龍穴の上)に復し、正遷宮の儀に及ぶ」
    神事が行われている間、境内にいる全ての人間は「一切言葉を発してはならない」
    とされています。
    神事の間は皆が榊の葉を口に咥える習わしで、言葉を発するのが困難な状況で
    執り行われます。
    今回、附曳神事が150年ぶりに行われたそうですが、現在でも大きな建物を引いて
    移される工事が、実は古くから受け継がれてきたものだと改めて関心しました。
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    本殿の左横に長さ10m、幅3m、高さ1.5mの「船形石(ふながたいわ)」が
    あります。
    玉依姫(たまよりひめ)が乗ってきた黄色の船を、人目に触れぬよう
    石で包み囲んだと伝えられています。
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    船形石の前に吸葛社(すいかずらのやしろ)があります。
    祭神は、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)です。
    味耜高彦根命は、大国主命(おおくにぬしのみこと)と田霧姫命(たぎりひめのみこと)の子で、農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されています。
    古くは傀儡師(傀儡子・くぐつし)や遊女が信仰する神、
    百太夫(ももだゆう・ひゃくだゆう))が祀られていたと伝わります。

    奥宮から車道を上っていくと、標高700mの芹生(せりょう)峠があり、
    それを超えた芹生の集落に寺子屋の跡と伝わる場所があります。
    平安時代、芹生の寺子屋に地元の子に混じり、高貴な顔立ちの子が一人いました。
    菅原道真が藤原時平の謀略で太宰府に流された中、
    道真の子・菅秀才(かんしゅうさい)を忠臣・武部源蔵がかくまっていたのです。
    歌舞伎「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の
    舞台となった所です。

    しかし、今回はここで後戻りして中宮へ向かいます。
    続く


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    中宮へ向かう前に、貴船神社には丑の刻参りが伝わります。
    草木も眠るといわれる丑の刻(午前1時~3時)、白装束を身にまとい、
    頭に五徳(鉄輪)をかぶってそこに三本のロウソクを立て、神社の御神木に
    憎い相手に見立てた藁人形を毎夜、五寸釘で打ち込むという行為が
    七日間続けれます。
    橋姫が、妬む相手を取殺すため鬼神となるを願い、
    「宇治川の水神に百夜の願をかけよ」との示現を受けたのがこの神社です。
    室町時代に翻案化された能楽の謡曲「鉄輪」と、陰陽師安倍晴明の人形祈祷が
    結びついて丑の刻参りに発展したのでは?と思います。
    しかし、本来は丑の“時”参りと云われ、丑の刻に貴船神社に参拝すると、
    心願成就するという全く異なった古くからの伝承が残されています。
    しかし、現在は門が閉められているのでは...と思います。
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    中宮まで戻ってきました。
    中宮は、結社(ゆいのやしろ)とも称され、磐長姫命(いわながひめのみこと)を
    祭神とし、縁結びの神として信仰されています。
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    石段を上って行くと鳥居が建っていて、正面に本殿があります。
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    磐長姫命は、大山祇神(おおやまつみ)の娘で、
    木花開耶姫(このはなさくやひめ)の姉です。
    天界から天降(あまくだ)った邇邇藝命(ににぎのみこと)は、木花開耶姫を
    見初めたのですが、大山祇神は二人の娘を邇邇藝命に嫁がせました。
    磐長姫命は、木花開耶姫のように美しくなかったので、邇邇藝命から愛されず、
    父の元へと送り返されました。
    大山祇神は怒り、「磐長姫命を差し上げたのは天孫(まめみや=邇邇藝命)が
    岩のように永遠のものとなるように、
    木花開耶姫を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと
    誓約(うけい)を立てたからである」と教えました。
    磐長姫命を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げました。
    また、磐長姫命が恨んで「顯見蒼生(うつしきあおひとくさ=地上の人間)は
    木の花のように移ろいやすく、衰えてしまうでしょう」と言ったとも伝わり、
    これが世の中の人の命が短い所以とされています。
    磐長姫命は、「我長くここにありて、縁結びの神として世のため人のため
    良縁を得させん」とこの地に鎮まったと伝わります。
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    境内には、平成8年に貴船の山奥より出土した重さ6tの自然石
    「天乃磐船」が置かれています。
    貴船神社創建にまつわる「黄色の船」の伝承から相応しいものとして
    奉納されたと思われます。
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    和泉式部の句碑
    「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」
    和泉式部は夫との不仲を解消するため貴船神社に参拝した際に、
    貴船川に飛ぶ蛍を見て切ない心情を歌に託して祈願し、
    夫婦円満になったと伝わります。
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    高浜虚子に師事したという松尾巌(いはほ・1882-1963)の句碑
    「貴船より 奥に人住む 葛の花」
    元は、本宮の石段上り口にありましたが、昭和10年の洪水で破損して
    上部が流失し、欠けたままになっています。
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    御神木の樹齢約400年の桂の木
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    本宮へ戻ると、結婚式が行われていました。
    先導されている笛の音が境内に響き、神聖で厳かに映りました。
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    鞍馬寺へ向かいます。
    桓武天皇が平安京に遷都して2年後の延暦15年(796)、東寺を造営する責任者に
    就いた藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)は、観世音を奉安する一宇の建立を
    念願していました。
    ある日、藤原伊勢人は夢の中に貴布禰明神が立ち
    「平安京のさらに北に深山があり、山は二つに分かれ、谷より水が流れ下り、
    この地には霊験がある。」と告げられました。
    夢から覚めた伊勢人は、白馬の導きで鞍馬山に登り、
    鑑真の高弟・鑑禎上人(がんていしょうにん)の草庵にたどり着きました。
    その草庵には毘沙門天が安置されていて、「毘沙門天も観世音も根本は
    一体のものである」という夢告が再びあり、伽藍を整え、毘沙門天を奉安したのが
    鞍馬寺の始まりとされています。
    京阪電車の「鞍馬・貴船1dayチケット」を提示すると
    入山料300円が200円に割引されます。
    西門で「鞍馬山案内」のマップを受け取り、鞍馬寺へ向かいます。
    続く


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    西門からは上り坂が続きます。
    途中には、不思議な木の芸術が点在しています。
    例えば、朽ちた木の幹から新しい木が育っていたりしています。
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    木の幹に別の木が巻き付き複雑に絡み合っています。
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    「尊天」と書かれた小さな祠もあります。
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    祠の近くにあるのは石灰岩で、約2億5千年前のサンゴ礁が隆起し、
    その後浸食により溝や窪みができています。
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    祠を通り過ぎても坂道は続きます。
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    ようやくの思いで奥の院魔王殿に到着しました。
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    手水舎
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    魔王殿は太古、護法魔王尊が降臨した磐座(いわくら)・磐境(いわさか)
    として信仰されてきた鞍馬山の聖地です。
    魔王殿の中に拝所があり、その奥に魔王堂があります。
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    お堂は杉木立の中にひっそりと佇んでいます。
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    瑞垣で囲まれた内側には多くの岩があり、
    その中には刀で傷つけられたような痕が残っています。
    牛若丸が剣道の修行をしていた時に付いたものとされ、「兵法石」と伝わります。
    この岩も石灰岩で、傷とされているものも、実は浸食によるものと
    現在の科学は分析しています。
    鞍馬寺は、昭和22年に天台宗から独立して、
    新たに鞍馬弘教(くらまこうきょう)を説いた天台宗系の新宗教教団の総本山です。
    千手観音、毘沙門天、魔王尊の三尊を「尊天」とし、本尊としています。
    「尊天」とは「すべての生命を生かし存在させる宇宙エネルギー」で
    あるとしています。
    「護法魔王尊」は、650万年前金星から地球にここに降り立ち、
    その体は通常の人間とは異なる元素から成り、その年齢は16歳のまま、
    年をとることのない永遠の存在であるとされています。
    魔王尊は「力」の象徴にして「大地(地球)の霊王」とし、その姿は、
    背中に羽根をもち、長いひげをたくわえ、高い鼻が特徴です。
    またの名を鞍馬山魔王大僧正(大天狗)で、鞍馬山僧正坊(鞍馬天狗)を
    配下に置いています。
    魔王殿から僧正ガ谷不動堂へと向かいます。
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    不動堂の右斜め前方、少し石段を上がった上に義経堂があります。
    遮那王尊(しゃなおうそん=義経の御霊)が祀られています。
    牛若丸は、平治の乱で父・源義朝が敗死したことにより鞍馬寺に預けられ、
    稚児名を遮那王と称しました。
    自分の出生を知ると、僧になることを拒否し、ここ僧正ガ谷まで通い、
    天狗から剣術の手解きを受けたと伝わります。
    しかし、兄・頼朝と対立し、遠く奥州の衣川館(ころもがわのたち)で
    自刃し果てました。
    鞍馬から標高769mの花背峠を越えた花背別所町の集落に、義経が乗馬の
    練習をした「馬場」と呼ばれた地が残されているそうです。
    花背は、同じ京都市左京区でありながら、もう初雪の便りが届いています。
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    僧正ガ谷は、かって真言宗の僧・壱演が住したことから僧正ガ谷と
    呼ばれるようになりました。
    不動堂には、最澄が天台宗立教の悲願を込めて刻んだと伝わる
    不動明王像が安置されています。
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    不動堂前の手水は、谷の湧水が引かれています。
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    不動堂の左前方には、谷からの水をためた小さな池があり、
    その横に眷属(けんぞく)社があります。
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    眷属社

    大杉権現社へ向かいます。
    続く

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