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鞍馬寺-その2(大杉権現社~八所明神)

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大杉権現社の付近は、大杉苑瞑想道場と呼ばれ、護法魔王尊のエネルギーの
高い場所とされています。
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かって樹齢千年と云われる三本の幹の巨木が聳えていました。
この杉は、護法魔王尊影向(ようごう)の杉として信仰されていましたが、
昭和25年の台風で折れてしまいました。
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大杉権現社の境内。
枯れた幹が芸術作品のようです。
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奥の院参道に戻った先に「背比べ石」があります。
牛若丸が鞍馬寺に預けられて10年余り、16歳になり奥州の藤原秀衡
頼って鞍馬寺を出奔する際、名残を惜しみ背比べをした石と伝わります。
高さ1.2mで、現在の七歳児の平均身長くらいしかありません。
源義経が着用した鎧から身長は147cmと推定されています。
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「背比べ石」の横には祠があります。
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背比べ石は石英閃光緑岩で、この付近の地層は、砂岩に石英閃光緑岩が
マグマの貫入により硬化したため、根が露出していて「木の根道」と
呼ばれています。
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木の根道の傍らに石塔があったのですが、その由緒については解りませんでした。
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参道を下っていくと、地蔵堂があります。
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扁額には「革堂地蔵尊」と記されています。
この地蔵堂が建つ地は、屏風坂と呼ばれ、かって一枚岩の屏風を立てたような
急坂であったことから名付けられました。
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地蔵堂を下った所に「息継ぎの水」が湧き出ています。
牛若丸が天狗から剣術の手解きを受けるために、僧正ガ谷へと通ったのですが、
ここの湧水で喉を潤したと伝わります。
上に見えるブルーの建物の土台が地蔵堂です。
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「息継ぎの水」からさらに下った所に門があり、奥の院への出入口になります。
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門への石段の脇に与謝野晶子の書斎であった冬柏亭(とうはくてい)が
移築されています。
冬柏亭は、昭和4年12月、与謝野晶子50歳の時、弟子から贈られ、
当時の東京市外荻窪村(現・杉並区荻窪)の居宅内に建てられました。
晶子没後、昭和18年10月に、冬柏亭は、門下生の岩野喜久代氏によって、
大磯にある氏の住居へ移されました。
更に、昭和51年4月、同じ門下生であった信楽香雲先代管長とのご縁で
この地に移築されました。
関係資料も寄贈され、それらは向かいの霊宝殿に収納展示されています。
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また、霊宝殿の右横には与謝野寛・晶子の歌碑が建てられています。
左・与謝野寛(鉄幹)「遮那王(しゃなおう)が 背比べ石を山に見て 
わがこころなほ明日を待つかな」
右・与謝野晶子「何となく 君にまたるるここちして いでし花野の夕月夜かな」
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霊宝殿は、一階が自然科学博物苑展示室、二階が寺宝展観室と与謝野寛・晶子の
記念室、三階が仏像奉安室になっています。
仏像奉安室の正面に、国宝の毘沙門天立像(平安時代・大治2年(1127)作)が
安置され、吉祥天と善膩師童子(ぜんにしどうじ・国宝)を脇侍としています。
毘沙門天の右側に重文の聖観音立像(鎌倉時代・嘉禄2年(1226)2月の銘)が
安置されています。
左コーナーには、倒れてしまった大杉権現社の杉の木の一部が展示されています。
左壁側には、重文の兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん・平安時代後期)、
鎌倉時代の毘沙門天像三体が安置されています。
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霊宝殿から参道を下っていくと、新しく整備されたように見える山手への
石段があります。
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それを上っていくと石塔とその奥に鐘楼があります。
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鐘楼には、共鳴のためか床に甕(かめ)が埋められています。
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鐘楼の横に八所明神が祀られています。
八所明神は、宮中賢所(かしこどころ)の祭神である八神
(神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、
御食津神、事代主神)を迎えて祀ったと云われています。
鞍馬の火祭り(10月22日)には、由岐明神と八所明神の二基の神輿が渡御します。
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八所明神の奥に経塚の石塔と石仏があります。
鞍馬寺の経塚から、平安時代~鎌倉時代の遺物約200点が発見され
国宝に指定されました。
その一部は霊宝殿に展示されています。

鞍馬寺の本殿へ向かいます。
続く

鞍馬寺-その3(本殿金堂)

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本殿へと下ってきました。
山の中腹でありながら、広い空間が広がり、団体の人々が一斉に弁当を広げている
光景は、今までの行程からは何か違和感があります。
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奥の院から下って来て右側、境内の西端に本坊(金剛寿命院)があります。
鞍馬寺寺務所と鞍馬弘教宗本庁が置かれています。
画像にはありませんが、前庭「瑞風庭」は、奥の院に護法魔王尊が降臨する様子を
表現しています。
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本殿の左側に光明心殿があります。
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護法魔王尊像が安置されています。
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本殿(金堂)は、昭和20年(1945)に焼失したため、
昭和46年(1971)に再建されました。
本殿前の金剛床は、「宇宙のエネルギーである尊天の波動が果てしなく
広がる曼荼羅を模したものです。
宇宙の力を内奥に蔵する人間が、宇宙そのものである尊天と一体化する
修行の場となっている」と説明されていますが、本殿を撮影する
ベストポジションらしく次から次へと撮影する人が絶えませんでした。
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本殿は狛犬ならぬ狛虎が睨みを利かしています。
毘沙門天の出現が寅の月、寅の日、寅の刻とされていることから、
虎は毘沙門天の使いであり神獣とされています。
本殿内は撮影禁止で、千手観音菩薩、毘沙門天王、護法魔王尊の三尊を「尊天」と
され、60年に一度丙寅(ひのえとら)の年に開帳されますが、30年後です。
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本殿の左側に閼伽井護法善神社(あかいごほうぜんじんじゃ)があります。
寛平年間(889~97)当時、鞍馬寺は東寺の末寺であり、東寺の僧・峯延(ぶえん)
が別当の任に就き、鞍馬寺は東寺真言宗に改宗しました。
ある日、修行中の峯延上人を二匹の大蛇が襲い、雄蛇は討たれたのですが、
雌蛇は尊天に捧げるお香水を永遠に絶やさぬと誓い、ここに祀られたと伝わります。
上人のこの大蛇退治伝説により「竹切り会式(蓮華会)」が
行われるようになりました。
毎年、6月20日に近江・丹波の両座に分かれた僧兵姿の鞍馬法師が、
大蛇に見立てた青竹を山刀で伐り、その速さを競って、豊作を占う行事です。
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閼伽井護法善神社では今も雌蛇との約束が守られ、お香水が流れ出ています。
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社殿の天井には龍の彫刻が施されています。
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神社の横には紅葉が残されていました。
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本殿前の「翔雲臺」で、板石は本殿金堂の後方より出土した経塚の蓋石だそうです。
背後に青く映っているのが比叡山です。

九十九折れの道を下ります。
続く

鞍馬寺-その4(九十九折れ参道)

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本殿から下って来た右側に寝殿があります。
寝殿は、大正13年(1924)に建立され、木曽の御料林の檜材が使用されました。
八月に開催される如法写経会の道場となりますが、普段は非公開です。
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寝殿の向かいに転法輪堂があり、1Fの洗心亭は無料休憩所と
ギャラリーが併設されています。
転法輪堂は昭和44年(1969)に建立されたものですが、1丈6尺の江戸時代作の
阿弥陀如来像も安置され、先祖に感謝の祈りを捧げる道場とされています。
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入口に石造りの転法輪が設置されていて、「南無阿弥陀仏」と唱えてこの転法輪を
一転すれば念仏六万遍の功徳があると伝えられています
850年前の平安時代に、重怡上人(じゅういしょうにん)が13年間堂内に籠もり、
毎日十二万遍の弥陀宝号を唱え続け、六万遍の弥陀宝号を書いて法輪に納めた
ことに因み、「一転の南無阿弥陀仏、その功徳六万遍の称名に等し」と伝わります。
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寝殿から下った所に「巽の弁財天社」があります。
本殿の東南(巽)の方角にあるので「巽の弁天さま」と呼ばれ、福徳・智恵・
財宝・伎芸を授けてくれる福神、弁財天が祀られています。
社殿には水琴窟が付設されていて、自然に落下して奏でられる音を楽しむことが
できます。
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巽の弁財天社から下った所で、ケーブル山上駅からの新参道と合流します。
ケーブル山上駅付近には、多宝塔があるのですが今回はパスします。
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鞍馬山七福神の福寿星神(福禄寿・寿老人)を祀る祠があります。
福禄寿は、もともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、
三体一組の神でしたが、日本には寿星(南極老人)の化身として
単独で伝わったようです。
福禄寿と寿老人は、共に寿星(南極老人)の化身で、
同体・異名の神とされています。
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福寿星神の祠の先に、「貞明皇后行啓御休息跡」の石碑が立っています。
大正13年に皇后が行啓された際に休息された場所です。
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中門は、元々は山麓の仁王門の横に建てられた勅使門でしたが、
現在地に移築されました。
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門をくぐって下って行くと、朱色の橋が架かり、橋の袂には玉杉大黒天が祀られ、
背後には杉の巨木が聳えています。
橋を渡った所には玉杉恵比寿尊が祀られていて、この辺り一帯は
双福苑と呼ばれています。
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愛と光と力の像「いのち」は、鞍馬寺顧問である澤村洋二氏によって
制作されました。
この像は、鞍馬山の本尊である尊天(宇宙生命・宇宙エネルギー・宇宙の真理)を
具象化したものです。
像の下部に広がる大海原は一切を平等に潤す慈愛の心であり、
光輝く金属の環は曇りなき真智の光明、そして中央に屹立する山はすべてを
摂取する大地の力強い活力を表現しています。
この愛と光と力こそは、宇宙生命ー尊天のお働きそのものであり、
先端の三角形はその象徴です。
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朽ちた楓の古木
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筝曲「稚児之桜」の碑
大阪の菊武祥庭(1884-1954)により明治44年に作曲されました。
氏は、京都の五条まで行き、牛若丸と弁慶の気分を味わい、
作曲されたそうです。
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義経供養塔は、牛若丸が住した「東光坊」跡に建てられています。
牛若丸は、平治の乱で父・源義朝が敗死したことにより鞍馬寺に預けられ、
稚児名を遮那王と称しました。
自分の出生を知ると、僧になることを拒否し、昼は東光坊で学問を行い、
夜になると僧正ガ谷まで通い、天狗から剣術の手解きを受けたと伝わります。
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川上地蔵堂は、牛若丸の守り本尊である地蔵尊が祀られています。

由岐神社へ向かいます。
続く

由岐神社

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由岐神社(ゆきじんじゃ)は、鞍馬寺の鎮守社で、
通称靫明神(ゆきみょうじん)と呼ばれています。
「靫明神」という社名は、天皇の病や国難時に神前に靫(ゆき)を献じて
平穏を祈ったことによります。
靫とは、「矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する容器のこと」で、平安時代以後は
壺胡簶(つぼやなぐい)と呼ばれ、儀仗(ぎじよう)用となりました。
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由岐神社は、大己貴命(おほなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこのみこと)
を主祭神として「由岐大明神」と総称し、八所大明神を相殿に祀っています。
「由岐大明神」は、元は宮中に祀られていました。
天慶元年(938)に発生した大地震や、翌年の天慶の乱と世情不安が続いた
ことにより、当時の朱雀天皇の勅により、天慶3年(940)に北方鎮護のため
鞍馬の地に遷宮されました。
毎年10月22日に行われる例祭の鞍馬の火祭は、そのときに里人がかがり火を
持って神霊を迎えたことに由来しています。
八所大明神は、かって鞍馬山の山上に祀られていたのですが、
江戸時代の文化11年(1814)に焼失しました。
その後、再建されなかったため、由岐神社に合祀されました。
現在は、鞍馬寺の本殿金堂裏側にある鐘楼の脇に、
八所大明神を祀った小さな祠があります。
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本殿脇に置かれている一対の狛犬は、それぞれ仔狛犬を胸に抱いた珍しいもので、
国の重要文化財に指定されています。
但し、現在安置されているのは原型を拡大したレプリカで、
本物は京都国立博物館に寄託されています。
子授けや安産、子孫繁栄にご利益があるとされています。
また、由岐神社が戌の日に腹帯を巻く習わしの起源になったとも云われています。
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本殿の左側にある三宝荒神社は、三宝荒神大神を祭神とし、
不浄や災難を除去する神とされることから、火の神、竈の神として、
古くからこの地に祀られています。
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本殿前の石段を下った途中に、御神木の大杉を祀る大杉社があります。
この御神木には、「一心に願えば願い事が叶う」と信仰されていて、
大杉の樹皮で造られたお守りが授与されています。
境内には三本の大杉が聳えていて、樹齢約800年、樹高は最長のものが約50m、
幹回り約6.5mあり、京都市の天然記念物に指定されています。
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大杉社の向かい側には白長弁財天社があり、白長弁財天が祀られ、
商売繁盛や健康長寿に御利益があるとされています。
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白長弁財天社から下った所に冠者社があり、素戔嗚命(すさのおのみこと)が
祀られています。
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冠者社の向かいに岩上社があり、事代主命大山祇命が祀られています。
かって、鞍馬山の「岩上の森」に祀られていました。
山岳登山の安全を信仰されています。
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石段を下った所に拝殿があります。
拝殿の両側は舞台で、中央に通路がある割拝殿ですが、
その通路は石段になっています。
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石段を下って振り返ってみると、斜面に懸造(がけづくり)で建てられ、
唐破風(からはふ)の屋根になっています。
拝殿は、慶長15年(1610)に豊臣秀頼により再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
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由岐神社から鞍馬寺の参道に戻り、叡山電鉄鞍馬駅に向かいます。
続く

鞍馬寺-その5(由岐神社~叡電鞍馬駅)

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由岐神社から鞍馬寺参道に戻り、橋を渡った先に魔王の瀧があります。
滝の上には、魔王尊を祀った祠があります。
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滝壺の横には「魔王之碑」と刻まれた石碑が建てられています。
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魔王の瀧の前に鬼一法眼社(きいちほうげんしゃ)があり
鬼一法眼が祀られています。
鬼一法眼は、室町時代初期に書かれた「義経記」巻2に登場する人物で、
堀川一条に住んだ陰陽師です。
中国の代表的な兵法書で「六韜(りくとう)」に精通し、
文武の達人とされていました。
『六韜』は、一巻に「文韜」「武韜」、二巻に「龍韜」「虎韜」、
三巻に「豹韜」「犬韜」の60編から成り、中でも「虎の巻」は兵法の極意として
慣用句にもなっています。
また剣術においても、京八流の祖として、また剣術の神として崇められています。
京八流(きょうはちりゅう)は、剣術の源流・始祖とされる流派の一つです。
平安時代末期に鬼一法眼が鞍馬山で8人の僧侶に刀法を伝えたところを始祖として、多くの剣術の源流となったとされています。
しかしながら京八流に関する文献は室町期以降ほぼ消失しており、
現代ではその実態を掴む事は難しい状況です。
源義経が学んだ流派が京八流、またはその一派ではないかと伝わります。
叡電貴船口駅付近にある由岐神社の境外末社「石寄社」は、「鬼一社」とも称され、鬼一法眼の相性椋と呼ばれる大木の下にあります。
また、椋の木の根元には「鬼一法眼之古跡」と刻まれた石碑が建っていて、
屋敷跡とも墓所とも伝えられています。
「義経記」では奥州に下った義経は再度上洛し、鬼一法眼を訪ね、
法眼の娘と通じて法眼秘蔵の「六韜」を盗み出させました。
その事を知った法眼は大いに怒り高弟・堪海に暗殺を命じましたが、
義経の返り討ちにあい、娘は奥州に去った義経の後を慕って
焦がれ死にをしたと伝わります。
歌舞伎・狂言「鬼一法眼三略巻」はこれに因んで作られたもので
世に流布する義経伝説の一つです。
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山側に、白長龍神と白姫龍神が祀られています。
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鬼一法眼社の先に鳥居が建っていますが、「魔王の瀧」の扁額が掛っています。
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鳥居をくぐって石段を下ってきたところに吉鞍稲荷社があり、
吉鞍稲荷、茶枳尼天(だきにてん)が祀られています。
茶枳尼天は、日本では一般に白狐に乗る天女の姿で表され、狐との結びつきから、
神道の稲荷と習合するきっかけとなったとされています。
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山側に、左から安行大神、吉鞍叱枳尼天、金龍弁財天、
赤長龍神・黒長龍神が祀られています。
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吉鞍稲荷から下った所に放生池があり、奥の滝から水が引かれています。
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放生池の背後にケーブルカーの軌道があります。
鞍馬山ケーブルは、寺が運営する僅か200mの路線で、昭和32年に開通しました。
多宝塔まで2分間で結びます。
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放生池から下った所に普明殿(ふみょうでん)があり、
二階がケーブルの山門駅になっています。
普明殿には毘沙門像が安置され、尊天の図解などが示されていて、
鞍馬山の本当の姿を知るための道場とされています。
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普明殿から下った所、鞍馬保育園の前辺りに童形六体地蔵尊が祀られています。
「子供は仏の子 子供は天からの預かりもの 子供は親の心をうつす鏡」
子供をまん中に、みんないきいき、きらきら輝いている、みんなのいのち輝く
保育園を、鞍馬保育園は目指しています。
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仁王門は、平安時代の寿永年間(1182~84)に建立されたのですが、
明治24年(1891)に火事で被災しました。
明治44年(1911)に再建され、向かって左側の一枚の扉は焼け残った
平安時代のものが使われています。
仁王像は、仁王門再建時に丹波から遷されたもので、湛慶の作と伝わります。

年が明けてから、鞍馬街道を下ってみたいと考えています。
続く

鞍馬寺-補足

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前回、鞍馬寺の行けなかった所や撮り忘れの所を補い、
更に鞍馬街道を下る目的で訪れました。
叡山電鉄の鞍馬駅は、昭和4年(1929)に建設された寺院風の木造駅舎で、
近畿の駅百選に選定されました。
鞍馬電気鉄道の鞍馬駅として開業しましたが、昭和17年(1942)に
京福電気鉄道と合併し、同社の鞍馬線となりました。
叡山電鉄は、昭和60年(1985)に京福電気鉄道の完全子会社として
設立されましたが、平成14年(2002)に京阪電気鉄道の完全子会社になりました。
鞍馬寺へ向かいます。
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石段の左側に建つ歓喜院・修養道場は、昭和39年に建立されたもので、
廃絶した山内の十院九坊をこの一棟に結集されました。
聖観音像が安置され、毎月7日と18日の午前10時40分より
「写経と法話のつどい」が行われています。
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仁王門は、平安時代の寿永年間(1182~84)に建立されたのですが、
明治24年(1891)に火事で被災しました。
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仁王門は明治44年(1911)に再建され、向かって左側の一枚の扉は焼け残った
平安時代のものが使われています。
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仁王像は、仁王門再建時に丹波から遷されたもので、湛慶の作と伝わります。
普明殿(ふみょうでん)へ向かい、二階のケーブル山門駅からケーブルに乗ります。
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自動販売機で乗車券を200円で購入するのですが、乗車券は寄付券になっていて、
実質は無料運行扱いになっているそうです。
現在の車両は4代目で、開業当初の車両は軌間762mmの鉄車輪2両交走式でした。
平成8年(1996)からの3代目よりゴムタイヤ式・錘との交走式に改められ、
架線が廃止され軌道脇から集電する方式となりました。
路線距離は、約0.2kmの直線で山門駅から標高364mにある多宝塔駅が見えます。
高低差89mを所要時間約2分で結びます。
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多宝塔駅です。
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多宝塔駅前に、毘沙門天の石仏が祀られた小さな祠があります。
この毘沙門天像は、多宝塔駅建設の時に草むらから発見されたもので、
「開運の毘沙門天」とされています。
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鞍馬山ケーブルが開通したのは昭和32年(1957)で、
多宝塔は昭和34年(1959)に再建されました。
多宝塔の内部は撮影禁止ですが、四隅には仏像が安置されていて、
その内の一体は厨子に納められ扉が閉められています。
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鞍馬山ケーブルの開通に伴い、新参道が整備され、その途中には弥勒堂があります。
弥勒は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが
約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来に
この世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされています。
また、未来仏の出現する時代は厳密には定かではなく「遠い未来」の比喩
ではないかとする説もあります。
弥勒菩薩像は、飛鳥時代に半跏思惟像が造られ、広隆寺の弥勒菩薩像は、
特にお気に入りの仏像の一つです。
最近、京都市左京区の「妙傳寺」で、本尊として安置されていた高さ約50cmの
半跏思惟像が、7世紀ごろに朝鮮半島で造られた仏像である可能性が極めて
高いことが判明しました。
この半跏思惟像が弥勒菩薩かは不明ですが、韓国では国宝級のものだそうで、
現在は京都国立博物館に寄託されていますので安心です。
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弥勒堂の先で九十九折れ参道と合流し、石段を上がって転法輪堂へ向かいます。
龍の手水舎の横から二階の通路に入ります。
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通路からは向かいの書院がよく見えます。
正面へ回って中に入りますが、内部は撮影禁止になっています。
1丈6尺 (約 4.85m) の金色に輝く阿弥陀如来像に圧倒されます。
堂内にある転法輪は、昭和8年に奉納されたもので、
回転はあまりスムーズではありません。
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転法輪堂を出て、本殿(金堂)までの石段を登ります。
前回撮影できなかった金剛床です。
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中心にある三角は何を意味しているのでしょうか?
パワースポットとして注目されているようです。
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前回撮り忘れた本坊の前庭「瑞風庭」です。
奥の院に護法魔王尊が降臨する様子を表現しています。
向かって右側の白砂盛りは、魔王尊の乗る天車を表しています。
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左側の石組は、奥の院の磐座を表していて、刈り込まれた木は鞍馬山を
表しているそうです。

本殿にお参りして、鞍馬街道へ向かいます。
続く

鞍馬街道-1

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下りは九十九折れ参道を下ります。
前回、中門は通行する人や写真を撮る人がいて、気に入った構図に
収めることができなかったので撮り直しました。
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由岐神社脇に立つ鹿子木(かごのき)は、クスノキ科で樹皮の禿げたあとが
白く鹿の子模様になるのが特徴とされ、樹高が17mあり京都市の天然記念物に
指定されています。
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鞍馬寺から下り、鞍馬街道を左折して少し街道を上ります。
電柱の脇に東海道自然歩道の標識が建っている所で右折します。
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平成26年に完成した鞍馬川に架かる地蔵寺を渡ります。
カーブしている先に八幡宮があります。
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八幡宮は由岐神社の境外末社で、八幡大神が祀られています。
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祠には小さな鳩(?)の置物が並んでいました。
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八幡宮に隣接して地蔵寺があります。
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笠をかぶった地蔵像が迎えてくれます。
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鐘楼はありますが、梵鐘はありません。
多分、戦時供出された後、再鋳されないままでいるのだと思われます。
地蔵寺は、康應元年(1389)に純盛上人によって開基されました。
本尊は、延命地蔵菩薩で、ガラス戸越しに拝むことができますが、
中は暗くてよく見えません。
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本堂の脇に置かれたバケツの水はまだ凍っていました。
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地蔵寺の前から薬王坂(やこうざか)と呼ばれる標高360mの峠道が続きます。
この峠道は、静市静原町を経て標高324mの江文峠(えぶみとうげ)を
越えれば大原へと結ばれています。
薬王坂と呼ばれる由縁は、「平安時代、伝教大師が鞍馬で薬王如来の像を造り、
比叡山に帰ろうとしてこの坂を越えた時、薬王がその姿を現したことから
その名がつけられた」と伝わります。
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鞍馬街道に戻り、街道を下ると由岐神社の御旅所があります。
10月22日に行われる由岐神社例祭(火祭り)では、由岐大明神・八所大明神の
2基の神輿が、御旅所に安置され、神楽が奉納されます。
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御旅所には、小さな祠が祀られていますが、何も表記がありません。
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御旅所から街道を下り、十王堂橋を渡った先に十王堂があります。
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堂内には十王尊が安置されています。
十王とは、仏教や道教などにおいて死者の魂を裁く十人の裁判官のことです。
人間を初めとするすべての衆生(命あるもの全て)は、
よほどの善人もしくは悪人でない限り、
その死後中陰(生者でも死者でもない存在)となり、
初七日から七七日(四十九日)及び百か日、一周忌、三回忌に、
順次十王の裁きを受けるとされています。
ただし十王信仰は元々の仏教にはなかった考えであるため
その捉え方は宗派によって異なり、死者は十王に裁かれるのではなく、
十仏もしくは十三仏のもとで徳を積むべく修行すると捉える宗派もあります。
 
死後、最初に対面する裁判官は秦広王(しんこうおう)で、
倶生神(くしょうじん・人の両肩にいる神で、片方は生前の善行を、
もう片方は悪行を記している)からの報告を元に審理が行われ、
どこから三途の川を渡るかが決められます。
善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、
重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡ります。
金銀七宝で作られていなくても良いので、橋を渡りたいと願い、
少なくとも難所は渡りたくないと思います。

死後三十五日目の審理を行う五番目の裁判官は閻魔王で、これまでの裁きの結果を
元に、死者が六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の
何処に生まれ変わるかが決められます。
六道の入口には六地蔵が立ち、衆生を救済するとされています。
希望としては天上以外に生まれ変わりたくないと思います。
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街道を下ると小さな祠と石碑が祀られています。
花やみかんが供えられていて、大切に守られていることが伺えます。
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鞍馬山小学校を通り過ぎた所に石寄社があります。
石寄社は、由岐神社の境外末社で「鬼一社」とも称され
鬼一法眼(きいちほうげん)の屋敷跡または墓所との伝承が残る地に建っています。
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石寄社の前に「鬼一法眼の相性椋」と呼ばれる椋の木が聳えています。
この椋の木は、「左京区民の誇りの木」に指定されています。
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椋の木の根元に「鬼一法眼之古跡」と刻まれた石碑が建っています。

二ノ瀬へ向かいます。
続く



鞍馬街道(貴船口~市原)

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二ノ瀬トンネルは平成14年に開通しましたが、歩行者や自転車は通行できません。
だから、という訳ではありませんが旧道を歩きます。
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道路が大きくカーブして集落に入り、夜泣峠へと右折します。
叡山電鉄の踏切を越えた所に、守谷神社と富士神社があります。
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鳥居をくぐった正面に拝殿がありますが、扉が閉じられています。
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裏側に回ってみると、拝殿の真ん中に囲炉裏があります。
11月の第2の酉の日の前の日曜日に執り行われる「お火焚き祭」の際に、
囲炉裏に火が焚かれ、神楽が奉納されるそうです。
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拝殿の奥の覆屋の中に東宮の守谷神社(右)と、西宮の富士神社が鎮座しています。
守谷神社の祭神は惟喬親王(これたかしんのう)で、富士神社は惟喬親王の
生母・紀静子(きのしずこ)が祀られています。
由緒書によれば、平安時代の元慶元年(877)に創祀されたと記されています。
また、貞観4年(862)に親王が二ノ瀬に閑居していた時に、里人に
挽物・木地挽物を伝えたことから祖神として祀られることになり、
貞観15年(873)に創建されたという説もあるようです。
二ノ瀬の地名は、一説には惟喬親王が京を追われて隠遁生活を送った際、
雲ケ畑の市ノ瀬(=一ノ瀬)に次いでこの地で暮らしたことに
由来するといわれています。
当初、守谷神社は鞍馬川東側の山中に創建されたようですが近年、
台風による洪水で社殿が破損したためこの地に遷されました。

惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子でしたが、皇位は第四皇子の惟仁親王が継承し、
後に清和天皇として即位することになりました。
惟仁親王の母は、当時の右大臣藤原良房の娘で、良房らの圧力により
惟喬親王は皇位を奪われ、都を出ることになりました。
伝承によると、惟喬親王は貞観9年(867)、現在の桟敷ヶ岳(さじきがたけ)
辺りに隠棲し、翌年雲ケ畑に迎えられ、
高雲宮(現・九龍山高雲寺・くりゅうざんこううんじ)に移り住み、
そこで出家しました。
桟敷ヶ岳には、惟喬親王が山上に高楼(桟敷)を構えて都を眺望したという
伝説があり、それが山の名の由来となったとされています。
また、雲ケ畑には、惟喬神社があり、惟喬親王が祭神として祀られています。
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守谷神社の前は東海道自然歩道で、この先の夜泣峠(よなきとうげ)を経て
雲ケ畑へ行くことができます。
幼少の惟喬親王が乳母に抱かれて二ノ瀬へ出る時、ここで一夜を明かされ、
乳母がこの峠の地蔵に願をかけて夜泣きを止めたことから、
夜泣峠と呼ばれるようになったと伝わります。
今回はここでUターンして二ノ瀬駅に向かいます。
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二ノ瀬駅は、集落から少し登った所にあり、ログハウス風の駅舎が「山間の駅」を
印象付けてくれます。
二ノ瀬駅の次の駅、市原駅で下車します。
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市原駅から鞍馬街道に出て、少し下ると厳島神社があります。
『山州名跡志』によると、室町時代の永享2年(1430)に創祀されたとあり、
伝承が残されています。
「村の老人の夢の中にお告げがあった。
美女が忽然と枕元に現れ、吾は河上に住む弁財天である。
家は西方にあって心は東南に通う。
鞍馬寺の毘沙門天との誓約があり、多門天の近隣に居を移し、
王城を鎮護したい。ここは福地であり、吾ここに住める。
吾を留めるならば福栄する、と言った。
老人は目覚めて奇妙だと思い、暁に河に出てみると六寸の白蛇が
粟の穂の上に座していた。
村中で協議し、これを祀って粟穂御前とし、先に仮殿に移し、
その後、社壇を造った」と伝わります。
明治までは粟穂弁財天、厳島弁財天と称し、
現在は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神としています。
市杵島姫命は天照大神の子で、邇邇芸命(ににぎのみこと)が降臨に際し、
養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたことから、
子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されています。
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本殿覆屋内には、空海作と伝わる天女像が安置されているそうです。
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拝所には、明治時代の絵馬が奉納されています。
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厳島神社の向かいに、「大神宮社」の石碑があり、背後には灯篭が
参道の両側に建っています。
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参道を進むと、叡山電鉄の低い鉄橋が架かり、その先に社殿が見えます。
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石段を上がった所に右から、片岡大明神・神明大明神・貴船大明神・
八幡宮が祀られています。
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短い石段を上がると本殿がありますが、扁額や駒札などは無く、
創建や由緒などの詳細は不明です。
祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)で、『日本書紀』では
天照大神(あまてらすおおかみ)などと表記されています。
伊弉諾(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の子で、太陽を神格化した神であり、
皇室の祖神の一柱とされています。
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本殿の後方にある小さな祠には、狐の像がたくさん置かれていますので、
多分稲荷神が祀られているものと思われます。
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鞍馬街道に戻り、小町寺へ向かいます。
続く

鞍馬街道(市原)

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鞍馬街道に戻り先に進むと、山を削って街道を通したように見える所があります。
江戸時代に拓かれ「篠坂の切通し」と呼ばれているそうです。
叡電市原駅の手前で静原川と合流した鞍馬川はこの高台に遮られて、
流路を西にとり鴨川に合流します。
鞍馬川や静原川沿いに住む人々は、古くから御所の上流に当たる鴨川に穢れた水を
流すのを防ぐため、この高台を越えた所に死者を埋葬しました。
かって、この地にはこれらの墓を管理する常涛院(じょうとういん)があったと
伝わります。
常涛院は、後冷泉天皇皇后(藤原 歓子・ふじわら の かんし)によって、
平安時代後期の承保元年(1074)に建立されました。
市原はかって、小野一族の所領地で、後冷泉天皇皇后は、
通称で小野皇太后とも呼ばれました。
補陀落寺(ふだらくじ)は、天徳3年(959)に15代天台座主の延昌の発願により、
静原にあった清原深養父(きよはらのふかやぶ)の山荘を寺にしたのが始まりと
されています。
その後、中世(鎌倉時代~室町時代)に廃寺となりましたが、
現在地に再興されたと伝わります。
また、当寺は、恵心僧都源信が小野小町の亡骸を葬った地とされていることから、
小町寺とも呼ばれています。
石段を上がった正面の本堂は、平成11年(1999)に再建され「小町寺」の扁額が
掛っています。
本尊は、鎌倉時代作の阿弥陀如来像で、脇侍に観世音菩薩像と勢至菩薩像が
安置されています。
また、本堂内には室町時代作の「小野小町老婆像」が安置され、
小野小町80歳の姿とされています。
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本堂の右側に「小町、姿見の井戸」があります。
現在、水は枯れてしまっていますが、伝説では小町が「井戸の水に映った
自分の姿を見て愕然とした」と伝わります。
しかし、女性だから毎日鏡を見ていたでしょうし、急激に美貌が変化したと
するのも不自然で、晩年の小町の不遇を物語る逸話として残されていると思います。
もっとも、晩年の小町が不遇だったかも不明ですが...
小野小町の出生や生い立ちは何一つ解明されておらず、
それ故数多くの伝承が残されています。
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境内には、小野皇太后の供養塔が残されています。
この宝篋印塔は、高さ2.4mで鎌倉時代後期の作と伝わります。
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供養塔の前には、銘木「13本檜」が植えられています。
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本堂と「小町、姿見の井戸」の間には、山号「如意山」と
刻まれた石塔が建っています。
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本堂の前を奥に進むと小野小町供養塔が建っています。
高さ3mの五重石塔で、鎌倉時代後期の作と伝わります。
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小野小町の歌碑
「花の色は 移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」
花の色は、むなしくも色があせて変わってしまいました。
物思いにふけって長雨を眺めているうちに...
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墓地には、江戸時代の高さ10mの仏舎利塔(文殊塔)が建ち、
内部には釈迦三尊の掛け軸が納められています。
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小町寺から鞍馬街道を横断した所に恵光寺(えこうじ)があります。
恵光寺は、平安時代の天暦2年(948)に尼僧の智空慶寿法尼(ちくうけいじゅほうに)が慶寿庵と名付けられた草庵を開いたのがはじまりとされています。
草庵は現在地付近に結ばれたと伝わりますが、その後無住となりました。
慶寿庵は、安土桃山時代の天正年間(1573~1592)に、
光空明道(こうくうみょうどう)上人によって中興されました。
一方、江戸時代の元禄年間(1688~1703)に京極・西林寺の
第四世・学僧の空覚上人(くうかくしょうにん)が恵光寺を建立して隠居しました。
恵光寺は、鞍馬川の北側にある向山(むかいやま)の山麓にあったと
云われています。
向山は、戦国時代から江戸時代前期にかけての
儒学者・藤原 惺窩(ふじわら せいか)が背向山(そがいのやま)と名付けた
ことから、村人からは向山と呼ばれるようになりました。
向山には、文人や宗教家が隠棲するようになりました。
その後、明治初期まで無住となりましたが、明治12年(1879)に
慶寿庵と恵光寺とが合併して、現在地に恵光寺が建立されました。
現在の本堂は、昭和58年(1983)に再建されました。
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本堂の北西角に地蔵堂があります。
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地蔵堂の本尊は、安産地蔵尊で、両脇には多くの千体地蔵が安置されています。
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鐘楼は、大正9年(1920)に建立されたのですが、梵鐘は戦時供出され、
昭和30年(1955)に再鋳されました。
その後、鐘楼の老朽化により、平成21年(2009)に
法然上人800年大遠忌(だいおんき)の際に改築されました。

叡山電車の市原駅まで戻り、岩倉駅に向かいます。
続く

岩倉

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叡山電鉄の岩倉駅で下車し、北上した先で左折して岩倉川沿いの道を北上します。
府道と交差した所で、十王堂橋を渡った右側に十王堂があります。
鞍馬の十王堂と異なり、小さな祠に祀られていますが強固に補強されています。
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十王堂橋を渡って戻り、岩倉川の右岸を上流に向かうと、
川を渡った所に山住神社があります。
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拝殿の先、山住神社には本殿がありません。
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背後の神南備山(かむなびさん)とそこに鎮座する巨石を神々が降臨する場
磐座(いわくら)」として古代から崇められてきました。
岩倉の地名は、この磐座に由来するとも伝わります。
平安京に遷都されると、都の東西南北に王城鎮護のため、経塚が設けられましたが、北の経塚が山住神社であったと伝わります。
天禄2年(971)に当社の北方に大雲寺が建立されると、その鎮守社として
現在の石座(いわくら)神社の地に遷座し、当社は御旅所となりました。
明治になって山住神社と改称されました。
石座神社へ向かいますが、その手前に岩倉実相院があります。
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実相院は、鎌倉時代の寛喜元年(1229)に静基(じょうき)僧正により
開基されました。
当初は現在の京都市北区紫野に創建されましたが、
その後御所近くの上京区実相院町に移転しました。
室町時代の応永年間(1394~1428)に、
大雲寺の成金剛院(じょうこんごういん)の地に移りました。
上京区実相院町の旧地の里坊は、応仁・文明の乱(1467~1477)で、
西軍に押収され焼失していることから、乱による被災から逃れるために
岩倉の地に移ったと考えられています。
しかし、天文15年(1546)に戦火で多くの伽藍等が焼失し、その後衰微しました。
江戸時代の寛永年間(1654~1663)に足利義昭の孫にあたる義尊(ぎそん)が
実相院に入りました。
古市胤子(ふるいち たねこ)が後陽成天皇の後宮となった関係で皇室と
将軍徳川家光より援助を受けて実相院と大雲寺を再建しました。
正面の門は四脚門で、享保5年(1720)に、東山天皇の中宮、
承秋門院(じょうしゅうもんいん)が逝去された後に移築されたものです。
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門を入った、参道には石仏が置かれています。
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正面の車寄せ及びその奥の本堂も旧殿から移築されたもので、
老朽化が進みつっかい棒によって支えられています。
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本尊は鎌倉時代作の不動明王像です。
画像はパンフレットのものです。
車寄せの左横から入りますが、京阪電車の「鞍馬・貴船1dayチケット」で
拝観料500円が400円に割引されます。
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建物に入り、廊下を進んだ奥に池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)が
あります。
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手水鉢の脇に咲くユリの花が、一際美しく色を添えてくれました。
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滝の間からは、黒光りする床板に庭園の景色が映りこみ、
「床緑」「床もみじ」と呼ばれていますが、今の季節は紅葉は終わり、
新緑にはまだ早く、幸か不幸か当日は晴天で雪景色にも恵まれませんでした。
建物内及び建物内部からの撮影は禁止されていますので、
パンフレットの画像を使用しました。
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客殿(本堂)の、狩野派の襖絵などを鑑賞でき、
冬の特別公開として「上段の間」が公開されていました。
もちろん撮影禁止です。
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客殿の廊下を東側に出ると、比叡山を借景とした石庭が広がります。
かっては蹴鞠の庭として使われていたそうですが、
2013年春~2014年秋にかけて小川勝章氏の監修、
市民参加による作庭が行われました。
「こころのお庭」と名付けられ、苔と石組は日本国を表現し、
島を囲む海に立つ三つの木製のオブジェは波を表しています。
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石庭の北側には、多数の石仏が置かれていました。

石座神社へ向かいます。
続く

那智の滝

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岩倉の途中でしたが、先日「西国三十三所巡礼の旅」のバスツアーに参加しました。
旅の目的地は、当然一番札所の青岸渡寺ですが、自分的には那智の滝と
熊野那智大社を目的地として参加しました。
神社に祀られている祭神を調べていくうちに、古事記や日本書紀に触れる機会が
多くなり、2月11日を前に建国の歴史を探求したくなったのがきっかけです。
高千穂の峯まで行くのは、今は無理なので、神武東征神話が残る那智の滝と
熊野那智大社から始めたいと思いました。

しかし、西国三十三所が来年で草創1300年を迎えることから、
各札所が特別拝観を行っていますので、そちらも巡りたいと思うようになりました。

熊野那智大社の公式ウェブサイトからの引用文です。
『当社は神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)の御東征を
起源としています。
 西暦紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(にしきうら・現在の那智の浜)に上陸されました。
 一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、
那智御瀧を探りあてられ、その御瀧を大己貴命(おおなむちのみこと)の
現れたる御神体としてお祀りされました。
 神日本磐余彦命の一行は天照大神より使わされた八咫烏の先導により無事、
大和の橿原の地へお入りになられ、西暦紀元前660年2月11日に初代天皇、
神武天皇として即位されました。
 先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は石に姿を変えて
休んでいるといわれています。(烏石)
その後、熊野の神々が光ヶ峯に降臨され、御滝本にお祀りしておりましたが、
仁徳天皇5年(317年)、山の中腹にあらためて社殿を設け、
熊野の神々・御瀧の神様をお遷し申し上げました。
これが熊野那智大社の始まりとされております。』
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バスツアーは、7:20に京都駅八条口を出発します。
京阪の七条駅から歩いて八条口に向かいましたが、思ったより早く着いたので
京都駅を撮影しました。
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那智の滝に到着したのが午後1時の少し前になり、
京都からの道のりの遠さを感じさせます。
那智の滝は、昭和47年(1972)に「那智大滝(なちのおおたき)」として、
国の名勝に指定され、平成16年(2004)に、ユネスコの世界遺産
紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録されています。
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滝の前に熊野那智大社の別宮である飛瀧(ひろう)神社があります。
この神社には、社殿がありません。
滝が御神体そのものになります。
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落ち口の幅13m、滝壺までの落差は133mで、一段の滝としては
落差日本一を誇っています。
垂直の断崖と日本一と云われる水量の豪快さは、畏敬の念を抱かせます。
神武東征以前から、滝は信仰の対象となっていました。
目の前の那智の滝は「一の滝」で、その上流の滝と合わせて那智四十八滝があり、
熊野修験の修行地となっていました。
明治の神仏分離令・修験道廃止令に伴い、この行も衰退しましたが、
最近になって那智四十八滝回峰行が再興されているようです。

また、一説では、那智山の奥にある妙法山に登るための禊祓(みそぎはらえ)の
地だったとも伝わります。
標高749mの妙法山の山頂に、唐から渡来した蓮寂上人が、
奈良時代の大宝3年(703)に妙法蓮華経を写経して山頂に埋め、
立木から釈迦像を彫って安置したことから、山の名が妙法山と
呼ばれるようになったと伝わります。
平安時代の弘仁6年(815)、空海は山腹に阿弥陀如来を本尊として
阿弥陀寺を建立し、極楽浄土への入り口としました。
山頂の阿弥陀寺・奥の院には納骨髪堂が残され、熊野詣の人々が極楽浄土を願い、
毛髪をここに納めました。
また、かつて、諸国から那智の滝に詣でる人々は、写経を経筒に入れ、お滝入口の大鳥居をくぐり左側にある「那智経塚」に、写経を納めました。
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飛瀧神社の境内に設けられた滝見台(お瀧拝所)まで、300円の入場料が
必要ですが行くことができます。
お瀧拝所までの石段の途中に、龍の口から「延命長寿の水」が流れ出ています。
昔、滝壺に花山法皇が千日の滝ごもりをし、延命長寿の仙薬である
「九穴(くけつ)の貝」を沈められてから、その「しぶき」に触れ、
「お瀧水」を飲むと、開運、延命長寿、幸福の霊験があらたかと伝わります。
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お瀧拝所から滝を見ると、うっすらと虹がかかっていました。
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滝は、三筋に分かれて流れ落ち、三筋の滝とも呼ばれています。
上部には注連縄が張られ、毎年7月9日と12月27日には、
「御滝注連縄張替行事」が行われます。
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お瀧拝所から下って来た所に祈願所があります。

バスの時間が迫っています。
バスで青岸渡寺へ向かいます。
続く

青岸渡寺

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那智の滝から青岸渡寺(せいがんとじ)の駐車場までバスで移動しましたが、
ここから約450段ほどの石段を登ります。
途中で熊野那智大社と青岸渡寺への参道が分かれますが、
その手前右側に観音像が祀られた祠がありました。
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左側、一の鳥居から那智大社への参道です。
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右手に折れると、石段の上に青岸渡寺の山門が見えます。
この山門は、今回はバスで素通りした「大門坂」を約650m登った所に
建っていました。
Wikipediaによると、この山門は「昭和8年(1933)に建設」とありますが、
この年に「大門坂」から移設されたでは?と思われます。
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金剛力士像についても「湛慶の作と伝えられているようであるが、
これは信憑性に乏しいのではないかと思われる。」と
Wikipediaでは紹介しています。
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裏側には、狛犬が安置されていますがどちらも口をあけた阿形の像です。
山門をくぐり、本堂へと向かいます。
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バスの中で配られたろうそくと線香を手向け、納経を行います。
個人で来ていたならば、決して行わないであろう行いです。
このバスツアーには、先達が同乗されていて、お参りの作法や心得など、
道中で聞き、納経の練習もしました。
般若心経以外、初めて触れる経文でしたので意味も解らず、
ただ唱えるだけでしたが、納経帳に朱印をいただく意味が、
少しは分かったような気がします。
来年、西国三十三所草創1300年に当たることから、青岸渡寺では、
その記念となる朱印も頂くことができました。

西国三十三所のウェブサイトでは、以下のように紹介されています。
『平成30年(2018)は、かつて大和国長谷寺の開山徳道上人が病にて仮死状態に
なられた際、冥土で閻魔大王に会い、「生前の悪い行いによって地獄へ
送られるものが多い故、観音の霊場へ参ることにより功徳が得られるよう、
人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受け、起請文と宝印を授かって
現世に戻され、その証拠でもって人々に観音信仰、及びその霊場へ参ることを
すすめられた養老2年(718)より、数えて1300年になります。
徳道上人が極楽往生の通行証となる宝印をお配りになったという場所は、
観音菩薩が衆生を救うために示現された霊験所や寺院でした。
このことにより、やがて観音霊場を巡る西国三十三所という信仰となり、
西国三十三所は日本最古にして、巡礼の元祖となりました。』
青岸渡寺が、第一番札所として定められたのは、花山法皇が永延2年(988)に
御幸された折に定められたとされています。

青岸渡寺は、仁徳天皇の代(300年代)にインド天竺の僧・裸形上人によって
開基されたと伝わります。
裸形上人は、那智山に籠もり、那智の大滝で修行を積まれ、
滝壺の中に黄金色に輝く八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を結んで
安置したのが始まりとされています。
その後、推古天皇の代に大和からきた僧・生仏上人が玉椿の大木で
一丈(3m)の如意輪観音像を刻み、この中に黄金の観音仏を胎内仏として納め、
勅願所として正式に本堂が建立されました。
如意輪観音の「如意」とは意のままに智慧や財宝、福徳もたらす如意宝珠という
宝の珠のことで、「輪」は煩悩を打ち砕く法輪を指しています。
六観音の1つに数えられ、天界道に迷う人々を救うとされますが、
6本の手で六道すべてに救いの手を差し伸べるともいわれています。
本尊は、秘仏で通常は前立ちの如意輪観音座像が安置されていますが、
4月中旬に開催される「開山祭」では開帳され、献茶法要が行われます。

本堂は、国の重要文化財に指定されています。
現在の本堂は、織田信長軍による焼き討ち後、天正18年(1590)に豊臣秀吉が
弟秀長に命じて再建されました。
再建の際に、秀吉から日本一の大鰐口が寄進されました。
直径1.4m、重量450㎏で、再興の趣旨が刻まれているそうです。
本堂は、大正13年(1924)に修理が施されました。

熊野三山の他の2社は、明治の神仏分離令により、仏堂は全て廃されました。
那智大社では如意輪堂が、信者によって守られ、
青岸渡寺の本堂として復興しました。
寺号は、秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた、
高野山の青巌寺(せいがんじ)に由来する伝わります。
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本堂を右側に回り込むと、水子堂があります。
右横にかろうじて写っている宝篋印塔は、鎌倉時代の元享2年(1322)の銘があり、
国の重要文化財に指定されています。
高さ4.3mで、明治以前は別の場所に建っていたそうです。
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鐘楼の梵鐘は、元亭4年(1324)に鋳造されました。
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如法堂は、大黒天堂とも呼ばれ、大黒天並びに六福神が祀られています。
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堂内は、多くの提灯が灯されていました。
急ぎ三重塔へと向かいます。
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三重塔は、那智の滝を望む絶景の位置に建てられています。
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戦国時代の天正9年(1581)に戦国領主や社家の対立にもとづく戦乱によって
焼失しました。
現在の塔は、昭和47年(1972)に再建されたものです。
本尊の飛滝権現本地千手観音が安置され、彩色の金剛諸界仏、観音、
不動明王などの壁画が描かれているそうですが、時間の都合で拝観を諦め、
那智大社へ向かいます。
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三重塔の全面は広場になっていて、布袋の石像が置かれています。
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背後には、観音像が祀られています。
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広場の奥に茶室・瀧壽庵があります。

熊野那智大社へ向かいます。
続く。

熊野那智大社

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青岸渡寺の本堂の左側に熊野那智大社への門があります。
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門をくぐった先に樟霊社(しょうれいしゃ)があります。
平重盛が造営奉行に就いていた際に、手植えしたと伝わる樹齢約850年の樟を
御神木として祀っています。
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このクスノキは、幹が空洞化していて、通り抜けることができ、
和歌山県の天然記念物に指定されています。
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熊野那智大社は、元々那智滝の近くに社殿がありましたが、
約1700年前に現在地に遷されたと伝わります。
拝殿の奥に鈴門・瑞垣を挟んで本殿が五社並んでいます。
主祭神は、第四殿に祀られている熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)です。
夫須美とは「産霊(ムスヒ)」と同意で、「むす」は生じる、「ひ」は
神霊の意味があり、天地・万物を生み出す神霊とされています。
後世になって「むすび」という意味も持つようになり、かつては
「結宮(むすびのみや)」という通称で呼ばれていました。
Wikipediaでは、次のような説明も見られます。
「夫須美大神の別名をイザナミとするのは、記紀神話において、
イザナミが国生み・神生みといった天地万物を生み出した女神であることから、
これをムスビと同意とみたものであろう。」
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奥から二番目の少し大きい社殿に熊野夫須美大神が祀られています。
手前の第一殿・滝宮は、那智大社のみで祀られています。
祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)で、当社公式ウェブサイトの由緒に
次のように記載されています。
「神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(にしきうら)(現在の那智の浜)に
上陸されました。
 一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、
那智御瀧を探りあてられ、その御瀧を大己貴命(おおなむちのみこと)の
現れたる御神体としてお祀りされました。」
大己貴命は、別称の大国主命が有名で、国造りの神として信仰されています。

第二殿は、証誠殿で家都御子大神(けつみこのおおかみ)が祀られています。
家都御子大神は、熊野権現の中心的な神で、もともと三山の中で、
本宮(熊野坐神社)の祭神であったとされています。
出雲の熊野神社の祭神である熊野大神櫛御気野命
(くまののおおかみ・くしみけぬのみこと)が勧請され、それが当地で
家都御子神になったと伝えられています。
また、朝日日本歴史人物事典では以下のように解説されています。
「ケツミコは「木津御子」で,樹木の神の意。櫛御気野命の子に五十猛命という神がいて,この神が紀伊国に木種を撒いたという伝承から命名されたらしい。」

第三殿は、中御前で熊野速玉大社の主祭神である御子速玉大神が祀られています。
第五殿は、若宮で天照大神が祀られています。
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本殿の左側に御縣彦社(みあがたひこしゃ)があります。
祭神は建角身命(たけつのみのみこと)で、八咫烏に化身して神武東征の際、
大和の橿原の地へ導いたとされています。
先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は烏石に姿を変えて
休んでいると伝わります。
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社殿の前には、八咫烏の銅像が建てられています。
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御縣彦社の奥に第六殿の八社殿があり、禅児宮・聖宮・児宮・子守宮・
一万宮、十万宮・米持金剛・飛行夜叉・勧請十五所の八社が祀られています。

来月、熊野三山を巡りたいと計画しています。
大門坂から、改めて那智大社もお参りしたいと考えています。
来月に続く。

石清水八幡宮の湯立神事

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2月3日、石清水八幡宮では、湯立神事が行われました。
湯立神事は、毎年2月1日と3日の正午より斎行される、春を呼ぶ節分行事です。
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神楽殿の前で、三つの大釜に湯が沸かされていました。
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この水は石清水社の霊泉から湧き出ている御神水です。
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当日は、厄除け・開運の八幡神矢の授与もされていて、
巫女の舞によって清められています。
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正午に神事が始まります。
船越 英一郎氏とTVクルーの撮影が行われています。
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舞が奉納されます。
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塩によって清められます。
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お神酒によって清められます。
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神前へと献上されます。
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そして、釜の湯は笹の葉で、四方に激しく振り撒かれます。
この湯を浴びると、厄除や無病息災の御利益があるとされ、
また五穀豊穣を願う神事でもあります。
残念ながら、少し離れていたため湯を浴びることはできませんでしたが、
カメラは守ることができました。
神事の最後には、参拝者に笹が配られますが、あっという間に長い行列ができ、
並ぶのを諦めました。

節分の行事といえば豆まき、と思っていたのですが
このような神事も行われていたのだと改めて認識しました。

石座神社

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岩倉実相院の山門を右手の方に進むと、「岩倉陵参道」「実相院宮墓」と
刻まれた石標が建っています。
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緩やかな石段を上った右手に石座神社の鳥居が建っています。
かって、石座神社は現在の山住神社の地にあり、
背後の神南備山(かむなびさん)とそこに鎮座する巨石を神々が降臨する場
「磐座(いわくら)」として古代から崇められてきました。
平安時代の天禄2年(971)、当社の東に位置する大雲寺建立に伴い、
大雲寺の鎮守社として現在地に遷されました。
長徳3年(997)に八所明神が勧請され、その後伊勢他四神が合祀されて
十二所明神が祀られるようになり、八所・十二所明神社と
呼ばれるようになりました。
室町時代の天文16年(1547)には兵火により焼失しましたが、
天文23年(1554)に再建されました。
明治時代になって、石座神社と改称されました。
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鳥居をくぐり参道の石段を登ると、中間の両側に細長い建物があります。
「東座」、「西座」と名付けられ、神輿の担ぎ棒などが保管されています。
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東座の方に手水舎がありますが、こちらへはロープが張られていて
立ち入ることはできません。
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本殿へと、一言神社への石段の間に、新しく手水舎が設けられています。
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更に石段を登ると、正面に拝殿があります。
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拝殿の左側(西側)に神輿庫があります。
石座神社の例祭は10月23日の早朝から行われます。
朝神事は午前2:30に始まり、大松明に点火されます。
その後、午前5:00頃に神輿が山住神社へ向かって出発します。
昼神事は、午後2:00に神輿が山住神社を出発して石座神社に戻り、
岩倉踊りが奉納されて幕を閉じます。
この祭りは、京都市の無形民俗文化財に登録されています。
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神輿庫の右側に神饌所があります。
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神饌所前の石段を上った所に左右に同じ社殿が並んでいます。
現在の社殿は、安土・桃山時代の天正20年(1592)に造営されたもので、
江戸時代の明和3年(1766)に、改造営が行われています。
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右側(東側)にあるのが八所明神本殿です。
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左側が十二所明神本殿です。
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十二所明神本殿の左側は、右・猿田彦神社、左・愛宕神社の社殿が
覆屋の中に収められています。
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境内のの左側には、三社殿が東向きに建っています。
左から香取神社・鹿島神社・稲荷神社 が覆屋の中に収められています。
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十二所明神本殿から左側の画像です。
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八所明神本殿の右側には一言神社があります。
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社殿の両側に安置されている狛犬は、何となく愛嬌のある姿に見受けられます。
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一言神社は、元はこの地より北北東へ約1km離れた村松の地にあったのですが、
明治11年(1878)に現在地に遷座されました。
石座神社の境内に鳥居を持つ別の神社が建っているのは、この由縁によるものです。
10月23日に近い土曜日に行われる祭りでは、子供神輿が朝5時にここを発ち、
村松の旧地に向かうそうです。

一言神社の創立年代は不明ですが、奈良県御所市の一言主神社の総本社が
賀茂氏本拠地である奈良県の高鴨神社近くにあるので、賀茂氏の北上に伴い、
一言主を祀る人々も移動してきたとみられています。
元の神社の社殿は、後水尾天皇の娘で岩倉の万年岡茶屋に住んでいた
女三宮(おんなさんのみや)により寛文8年(1668)に再興されました。
祭神の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)は、一言の願いであれば
何でも聞き届ける神とされています。
幕末、岩倉に隠棲していた岩倉具視は、村松にあった一言神社にしばしば参詣し、
一言神社のために2反(600坪)弱の田を購入して、
収穫米の2石(300kg)を神社の維持費に寄進しました。
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現在の社殿前の石灯籠は、岩倉家から奉納されたものです。
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一言神社の左側、西向きの社殿には、左から出雲神社・貴船神社・
熊野神社の三社殿が覆屋の中に収められています。
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一言神社と西向きの社殿です。
境内は本殿を含め、左右対称に配置されているようです。
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一言神社前の石段を下った左側に社務所があります。
神輿庫と神饌所と間の通路から「冷泉天皇皇后・昌子内親王 岩倉陵」へ
向かいます。
続く

「冷泉天皇皇后・昌子内親王」の岩倉陵~不動の滝

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石座神社の神輿庫と神饌所の間を通り抜け、右側に出て石段を上がった所に
「冷泉天皇皇后・昌子内親王」の岩倉陵があります。
この地は、昌子(しょうし)内親王が平安時代の永観3年(985)に創建した
観音院の跡であり、崩御後に観音院に葬られました。
昌子内親王の御所には越中守平保衡女(たいらのやすひらのむすめ)と
その娘の和泉式部が仕えており、また晩年には歌人藤原為頼(紫式部の伯父)が
太皇太后宮大進(たいこうたいごうぐのだいじん)を務めました。
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岩倉陵から北山病院と介護老人施設の間の通路の突き当りに
不動の滝(妙見の滝)があります。
介護老人施設の前には大雲寺の名残と思われる石碑も見られます。
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左・不動の滝と右・妙見の滝
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不動の滝の上部には、左側に不動明王、右側に妙見菩薩が祀られています。
以前は背後の山の中腹に、朝日妙見が祀られていて、
洛陽十二妙見霊場の筆頭でした。
洛陽十二妙見は、江戸時代から栄えたのですが、その後衰退し、
最近になって復興されています。
右側の妙見の滝は、妙見信仰の滝行場でもありました。

妙見大菩薩は、北極星、北斗七星を神格化した菩薩であり、
諸星の王として宇宙万物の運気を司どり支配される菩薩です。
洛陽十二妙見は、京都の中心である御所・紫宸殿を中心に
十二支の方角に祀られた妙見宮から構成されています。

不動の滝は、古来より大雲寺で心の病がよくなるよう加持祈祷を受けるために
訪れた人たちの垢離場(こりば)だったそうで、
滝に打たれると本復すると伝わります。
現在の北山病院は、彼らの滞在を引受けた籠屋(こもりや・後の保養所)の
一つが発展したものです。
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不動の滝の北側に閼伽井堂があります。
近くの説明板によると、この閼伽井には二つの伝説があるそうです。
一つは、その昔、智弁僧正(918~991)が霊水を求めて密教の秘法を
修めたという伝説です。
また、もう一つの伝説は、文慶上人(965~1046)の夢に
跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)が現れて、「此の地に名水有り、
汝に与うべし」とお告げがあり、左の袂をもって大地をさすると
たちまち霊水が湧き出したという故事が残されています。

干ばつにも降雨にも増減しない「不増不減の水」と称され、
古来より霊水として崇められ、心の病や眼の病に霊験あらたかで、
平安時代から今日まで信仰されているそうです。
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お堂の前には、清らかな水が汲みあげられています。
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閼伽井堂の裏側には、鎌倉時代の作とされる石仏が残されています。
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苔むした石段を上った先には、誰かは分かりませんがお墓らしきものが...
ひょっとして智弁僧正のお墓かも...
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更にその北には、実相院宮の墓地があります。
以前は、不動の滝付近が大雲寺の境内でしたが、すっかり様変わりしてしまった
この地で、実相院宮は安らかに眠られているのだろうか?
と案じてしまいました。
大雲寺へ向かいます。
続く

大雲寺

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不動の滝から下って来て石座神社の鳥居前を通り過ぎた先に、
高さ1.9m、鎌倉時代作の三面石仏が祀られています。
阿弥陀如来坐像と脇侍として右に十一面観音立像、左に地蔵菩薩立像が
彫られているそうですが、布に隠れて確認できませんでした。
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三面石仏の隣に「万里小路中納言藤房
(までのこうじちゅうなごんふじふさ)卿髪塔」があります。
宝篋印塔は、鎌倉時代後期から南北朝時代作とみられています。
万里小路藤房は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿で、
後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画しました。
しかし、幕府軍に敗れ常陸国に下ることになりました。
鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333)6月に復官を果たし、
建武政権では要職を担いましたが、政権に失望して翌年に岩倉で出家し、
岩倉に隠棲したとも、相国寺に住したと伝わる他、各地に伝承が散見されます。
江戸時代の儒学者安東省菴(あんどうせいあん)によって、
平重盛楠木正成とともに日本三忠臣の一人に数えられています。
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「万里小路中納言藤房卿髪塔」の先に大雲寺があります。
しかし、最初それとは気付かず通り過ぎてしまいました。
一見すると、お寺とは見えない建物になっています。
大雲寺の旧寺地は、新しく建った老人介護施設の辺りで、
「昌子内親王 岩倉陵」も境内に含まれ観音院がありました。
昭和の法難(裁判沙汰になるような金銭トラブル?)の末に、
昭和60年(1985)、現在地に移転しました。
昭和の法難では、寛永18年(1461)建立の本堂や経蔵、鐘楼、庫裏、
鬼子母神堂などが失われて更地となり、寺宝・秘仏の全てが散逸しました。
平成10年(1998)、現住職により昭和の法難に散逸した寺宝178点全てを
大雲寺に取り戻しました。

縁起によれば、天禄2年(971)日野中納言藤原文範真覚を開山として
創建したのに始まると伝えられ、園城寺(三井寺)の別院でした。
円融天皇が比叡山延暦寺講堂落慶法要の際、当山に霊雲を眺められ文範を視察に
遣わしたとも伝わります。
文範は紫式部の曽祖父(式部の母の祖父)にあたります。
真覚は藤原敦忠の子で、俗名を藤原佐理といい、村上天皇に近侍していたのですが、天皇没後に比叡山で出家しました。
大雲寺の本尊十一面観音は、聖武天皇の姿を写した行基作の一木作りで、
内裏に伝来した像を、真覚の祖父にあたる藤原時平が下賜されたものと伝わります。
現在は秘仏となっています。
天元4年(981)、天台宗の僧・余慶は一門の僧数百人を連れて大雲寺へ移りました。
余慶は諡号(しごう)を智弁といい、寺門派(園城寺)の僧で、
大雲寺に移ったことにより、大雲寺は寺門派の拠点寺となりました。
良源らの山門派(延暦寺)と対立し、大雲寺はたびたび兵火に見舞われ、
焼失を繰り返しました。
この頃の大雲寺は、七堂伽藍、四十九院、僧兵千人を有する大寺院でしたが、
保延2年(1136)には当時残っていた伽藍が全焼しました。
その後、再建されましたが、応仁・文明の乱でも焼失し、元亀2年(1571)、
織田信長の比叡山焼き討ちの際にも焼失しました。
江戸時代に入り寛永年間(1624~1644)に後水尾天皇の後援を得て、
実相院門跡・義尊により本堂等が再建されました。
大雲寺旧蔵の梵鐘(国宝)は、天安2年(858)の銘があり、
もと比叡山西塔に伝来したとされ、現在は佐川美術館に所蔵されています。
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参道には地蔵尊像が祀られています。
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境内には、閼伽井堂双龍大権現が祀られています。
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大雲寺から南下して、バス通りを左折すると朱色の橋が見えます。
この橋は「目無橋」と名付けられています。
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橋の袂には目無地蔵が祀られています。
石仏は風化して、目鼻立ちが見えなくなったことから目無地蔵と呼ばれています。
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最も大きい石仏は、像高約1mで鎌倉時代作の阿弥陀如来座像とみられ、
旧大雲寺などの遺仏と推定されます。
両側には脇侍も彫られています。

目無地蔵から岩倉川沿いに下り、一筋目を右折して岩倉具視幽棲旧宅に向かいます。
続く

岩倉具視幽棲旧宅

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目無地蔵から岩倉川沿いに下り、一筋目を右折した先に岩倉具視幽棲旧宅が
あります。(表門)
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表門の東側にある通用門から中に入れます。
入場料は300円です。
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きれいに手入れされた庭園の奥にある石段を上ります。
正面に見える松の木は、岩倉具視が手植えされたものです。
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松の木は、入口からはこんもりとしか見えませんでしたが、
上がって見ると横にも枝を伸ばしていました。
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正面の主屋は、鄰雲軒(りんうんけん)と名付けられていますが、
昭和7年(1932)に岩倉具視の孫、東伏見宮周子(ひがしふしみのみやかねこ)が
扁額に揮毫(きごう)したことによるものです。
部屋に上がって額を見ることができます。
南向きの縁側には座布団が置かれ、うららかな陽射しを受けて
庭園を愛でることができます。
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主屋の左側に中門があります。
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中門をくぐって左に行くと、主屋の玄関があります。
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式台と玄関
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玄関の前を通り過ぎた先に、附属屋があります。
附属屋の勝手口には、龍吐水(りゅうどすい)が展示されています。
箱に入れた水を手押しポンプで噴出させる消火用の装置で、
明和元年(1764)に江戸幕府から町々に給付されました。
龍吐水とは、竜が水を吐くさまに見立てて名づけられましたが、
実際は消火にはあまり役に立たなかったようです。
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龍吐水が展示されている奥は土間で、京都では「おくどさん」と呼ばれている
かまどが設えてあります。
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当時の炊事の様子がイラストで描かれていました。
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水屋箪笥とは食器棚のことで、台所が水を扱う場所であることから転じて、
そこに置かれる収納家具を指すようになりました。
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米びつ。
幽棲中の岩倉具視は、公卿中御門経之、薩摩・水戸・土佐藩士らと交流し、
慶応3年(1867)には坂本竜馬中岡慎太郎大久保利通らが岩倉邸を訪れています。
米も結構な量必要だったのかもしれません。
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附属屋の奥の方に井戸が見えます。
イラストに描かれていたのは、この井戸でしょうか?
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附属屋には武具掛けも見られます。
文久2年(1862)、尊王攘夷派の志士たちから佐幕派とみなされるように
なっていった岩倉具視は、僧体になって西賀茂の霊源寺に一先ず身を隠しました。
その後、養父・具慶の甥が住職をしている洛西の西芳寺に移り住んだのですが、
「洛中に住んではならぬ」と追放令が発令されたため、
岩倉村で幽棲することになりました。
岩倉具視は、生後間もなく岩倉花園村の山本九兵衛宅に預けられ、
天保9年(1838)8月8日に岩倉具慶の養子となっています。
岩倉の地と、何か縁があったのかもしれません。
当初は藤屋藤五郎の廃屋を借りて幽棲していたのですが、
元治元年(1864)に現在の附属屋である大工・藤吉の居宅を購入し、
後に主屋と繋屋を増築しました。

主屋の方へ戻ります。
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主屋の東側に岩倉具視の遺髪を埋葬した遺髪碑が建てられています。
碑文は、対岳文庫にも展示されていて、要約文が記されています。
長男・具綱(ともつな)と岩倉村の人々の計画によって建設されました。
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遺髪碑の横には、次男・具定(ともさだ)と三男・具経(ともつね)の
碑が建っています。
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主屋の裏側には中庭があります。
奥の繋屋には浴室と便所が設置されています。
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対岳文庫へ向かう途中に句碑が建てられています。
昭和・平成期の俳人、丸山海道と丸山佳子によるもので
「手植松 こゝに 岩倉踊 かな」「万の蝉 維新文筥(ふばこ)に こゑをたむ 」。
岩倉踊は、岩倉具視がここで、近所の少女らを招いて盆踊りを催していた事に
ちなみ、具視・没後50年祭で石座神社で踊られるようになったそうです。
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正面の対岳文庫は、昭和3年(1928)に建設された鉄筋コンクリート造りの建物で、
国の有形文化財に登録されています。
岩倉具視関連資料が展示されているのですが、館内は撮影禁止になっています。
重要文化財になる関連資料は、京都市歴史資料館で展示されています。

対岳文庫前の無料休憩所のコーヒーで英気を養い、是心寺へ向かいます。
続く。

是心寺~解脱寺・閼伽井跡

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岩倉具視幽棲旧宅からバス道に出て、東へ進んで突き当りを左折します。
三筋目の細い通りを東へ進んだ先に是心寺があります。
背後の山は小倉山で、近江から移り住んだ山本氏が築いた小倉山城がありました。
天文20年(1551)、三好長慶勢が岩倉に攻め入り、小倉山城は焼失しました。
是心寺は、安土・桃山時代の文禄元年(1592)に相国寺の塔頭・慈照院の末寺
として創建された臨済宗の寺院で山号を小倉山と号しています。
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明治10年(1877)に十王堂橋の畔にあった十王堂が山門前に移築されました。
かって、岩倉村での葬列は十王堂橋を渡り、
十王堂の前を通り墓地へ向かったそうです。
堂内には、閻魔大王を中心に十三像が祀られ、右側に地蔵菩薩の大小像、
左側に千手観音像と大小の諸仏、大黒天像が安置されています。
この大黒天像は、慈照院の大黒天と同じいわれの二体の内の一体とされています。
明治19年(1886)に、岩倉村に在した相国寺塔頭・慈照院の末寺7ヶ寺の内
5ヶ寺を合併して是心寺が再建されました。
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閻魔堂の手前に地蔵堂があります。
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是心寺から北に進むと来迎院があります。
来迎院の玄関前には観音像が建ち、像も建物もまだ新しいように見受けられます。
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来迎院から北に進み、その先で右折し、東に進んだ先に長源寺があります。
長源寺は、室町時代の寛正3年(1463)に、岩倉の長谷上ノ町に創建された
と伝わります。
知恩院の末寺で、浄土宗鎮西派、山号は朗詠山です。
江戸時代の寛文12年(1672)に浄土宗の僧・真悦によって再興され、
真悦は中興の祖となりました。
明治5年(1872)に長谷の地にあった5ヶ寺が合併され、
その1ヶ寺である地蔵院の地に移りました。
昭和38年(1963)に現在地に移転し、現在の堂・庫裡は
明徳小学校の講堂を解体した建材が使用されました。
長源寺の本尊は、江戸時代作の阿弥陀如来立像で、その他に廃寺となった
5ヶ寺の本尊が安置されています。

恵尊寺の本尊であった、平安時代後期作の薬師如来立像は、
昭和8年(1933)に国宝に指定されましたが現在は重要文化財に指定されています。

常春庵(解脱寺を含む)の本尊であった、十一面観世音菩薩立像は、
慈覚大師の作で平安時代の公卿・藤原公任(ふじわらのきんとう)の
念持仏であったと伝わります。

地蔵院の本尊であった、江戸時代作の地蔵菩薩坐像、妙源庵の本尊であった、
江戸時代作の阿弥陀如来立像、無縁堂の本尊であった、
江戸時代作の阿弥陀如来立像などが安置されています。
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鐘楼と十三重石塔。
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長源寺前の四つ角を東に進み、その先の四つ角を左折して北に進み、
道がカーブしている所を右折した先に解脱寺の閼伽井跡があります。
道路の突き当りは民家の敷地のように見えますが、その奥に石碑が建っています。
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解脱寺は、平安時代に藤原詮子(ふじわらのせんし)が建立しました。
藤原詮子は、院号を東三条院とし、中京区押小路通釜座西北角に居住地であった
東三条殿跡の石碑が残されています。
平安時代の中期に解脱寺に移った僧・観修が、境内に閼伽井を掘りました。
解脱寺閼伽井之碑」は、江戸時代末期の元治元年(1864)に、
観修の功績を偲んで聖護院門跡・雄仁入道親王によって建立されました。

また、藤原公任は、晩年の万寿3年(1026)に解脱寺で出家したと伝わります。
今回は足を延ばすことができませんでしたが、閼伽井跡から北側にある
朗詠谷付近の小野山荘で隠棲しました。
朗詠谷を登った山中には「聖護院門跡長谷廟所」があります。
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閼伽井跡
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閼伽井跡からは今も清水が湧き出ています。
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解脱寺跡の物かは不明ですが、周囲には瓦のかけらが見られます。
長谷八幡宮(はせはちまんぐう)へ向かいます。
続く

長谷八幡宮~西願寺

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閼伽井跡を南へ進んだ先に長谷八幡宮(はせはちまんぐう)があります。
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石標の建つ参道を進むと、参道脇に愛宕灯篭があり、
背後に箱宮が祀られています。
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陽射しが神々しく感じられます。
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鳥居は、昭和54年(1979)に破損したため、翌年に修復されました。
朱の色が鮮やかのように見えます。
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狛犬は江戸時代のものでしょうか?
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短い石段を上って鳥居をくぐった先に拝殿があり、
拝殿の左側に覆屋に収められた本殿があります。
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本殿
長谷八幡宮は、平安時代の天安元年(857)に文徳天皇の第一皇子・
惟喬親王(これたかしんのう)の請願により創建されたと伝わります。
由緒書きには、「八幡大神並びに惟仁親王(これひとしんのう)を勧請して」と
ありますが、惟仁親王は文徳天皇の第四皇子で、第一皇子が第四皇子を
祭神に祀るとは...?疑問に感じます。
惟仁親王ではなく、惟喬親王が祀られていると云う説もあるようです。
現在の社殿は、江戸時代初期の元和年中(1615~24)に、社殿が大破したのを
憂いて、後水尾天皇の中宮・東福門院が再興したと伝わります。
長谷八幡宮は、皇居から鬼門に当たる艮(北東)の方向にあることから、
国家鎮護の神社として皇室との関わりが深かったのかもしれません。
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本殿には、奉納された絵馬が掛けられています。
年代を感じさせます。
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本殿の裏側には灯篭が建ち、遥拝所のように見受けられます。
また、その北側を流れる小川の畔には、役行者と思われる石像や石仏、
「妙法蓮華経」と刻まれた石塔が残されているそうです。
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本殿の左側(西側)に蔭山神社があります。
蔭山神社は、かって同じ長谷の地に祀られていましたが、
明治12年(1879)に長谷八幡宮の地に遷座されました。
現在も、当社で蔭山神社の例祭が行われています。
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蔭山神社の左前方に神輿庫と社務所があります。
10月10日の長谷八幡祭(例祭)では、神輿の巡幸が行われます。
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本殿の右側には、奥から梅宮社・鴨皇社合殿・蔵王社・疫神社・春日社・
山王社・稲荷社・神明社が祀られています。
これらの末社も、長谷の地に祀られていたものを、明治12年(1879)に
長谷八幡宮の地に遷座されました。
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拝殿の東側に神饌所があります。
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神饌所の右側(南側に)蛭子神社がありますが、他の社殿から離れているので
独立しているように見受けられます。
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蛭子神社前の石段を下り、南側に出て西願寺へと向かいます。
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西願寺の石標から少し車道を登り、大きくカーブした先に本堂が見えてきます。
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駐車場に除雪で集められた固まりがまだ残っていました。
西願寺の創建は、同寺のfacebookよると安土桃山時代の慶長元年(1596)で、
元は三条縄手にあり、四軒寺(他に三縁寺・高樹院・養福院)の一軒でした。
昭和49年(1974)、三条大橋東詰にバスターミナルが建設されることになり、
現在地に移転しました。
三縁寺・高樹院は、付近に移転しましたが、養福院は八瀬に移ったようです。
2004年、中国の江蘇省蘇州市の寺で、日本の江戸時代中期に作られたと
見られる梵鐘が確認されました。
この梵鐘には、「宝暦四年」「山城国三条縄手西願寺」「洛陽三条住」
「国松庄兵衛」などの文字が刻まれています。
宝暦4年(1754)に、京都三条にある西願寺の依頼で、同じ京都三条の
国松庄兵衛が鋳造したと解されます。

どのような経過で中国に渡ったのか詳細は不明ですが、
西願寺の歴史が金属の戦時供出で失われることも無く残されていたことに
感慨を覚えます。
できることならば、日本に帰ってきてこの境内で見ることができれば...
と思いました。

本堂は、新しく鉄筋コンクリートで造られたようです。
本尊の阿弥陀如来像は、聖徳太子の作と伝わります。
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観音堂は木造で、像高60cmの聖観音菩薩立像が安置されています。
朝日観音とも呼ばれ、菅原道真の念持仏であったと伝わり、
かって北野天満宮に安置されていました。
明治の神仏分離令により、当寺に遷されたそうです。
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書院
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観音堂の先には阿弥陀如来の石仏が祀られています。
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石仏の先に山門があり、こちらが表側だったようです。
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山門から石段を下り、妙見神社へ向かいます。
続く。
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