Quantcast
Channel: kor**kor*_ishik*r*のブログ
Viewing all 497 articles
Browse latest View live

中山寺-その3

$
0
0
イメージ 1
絵馬堂の奥に入って行くと萬霊塔があり、梅林への看板が見えます。
イメージ 2
梅林の入口の門扉はまだ閉じられていましたが、イノシシに出会わぬように
祈りながら中に入りました。
イメージ 3
イメージ 4
イメージ 5
梅の花は見頃で、ゆっくりとしていたいのですが、列車の時間も気になります。
梅林の先から奥の院へ行けるそうですが、約50分ほどかかるそうですので
奥の院の参拝は取りやめます。
イメージ 6
梅林から戻り、萬霊塔の横を奥の方へ進むと大願塔の上の方に出ます。
大願塔は、開創1400年記念事業として新築されたもので
かつて中山寺に存在していたとされる大塔(5間ある多宝塔)を再建したものです。
堂内には位牌室や祈祷室などがあります。
イメージ 7
大願塔から大師堂の方へは緩い下り坂になっています。
イメージ 8
坂道を下って来た所に多くの石仏が祀られています。
イメージ 9
石仏群の先は広場になっています。
イメージ 10
広場の端の方に祠がありましたが、何も記載が無く、
祭神等は不明です。
イメージ 11
大師堂は、弘法大師が祀られています。
イメージ 12
大師堂の前には、弘法大師像が建立されています。
イメージ 13
大師堂の横には厄丸大明神の新しそうな祠があります。
イメージ 14
石室と思われる前に地蔵が祀られています。
イメージ 15
大師堂の前方に完成したばかりの五重塔が建っています。
五重塔は、天上世界を象徴するという鮮やかな瑠璃色と、
黄金の相輪が眩しく輝いています。
近々落慶法要が営まれるそうで、新築の木造五重塔が見られる機会は
滅多にありません。
イメージ 16
五重塔の前から本堂を俯瞰します。
本堂の大きさを改めて認識できます。
イメージ 17
五重塔から石段を下って来た所に護摩堂があります。
護摩堂は、桃山時代の建築様式を遺した貴重な木造建築として、
兵庫県の文化財に指定されています。
本尊は、平安時代後期作の不動明王で、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と
制吒(多)迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えています。
また、須弥壇(しゅみだん)の上には中尊の不動明王・降三世明王
(ごうざんぜみょうおう)、軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、大威徳明王、
金剛夜叉明王の五大明王が祀られています。
イメージ 18
護摩堂の右側に開山堂があり、聖徳太子が祀られています。
聖徳太子の名称が使えなくなるのか心配です。
イメージ 19
開山堂の奥にエレベーターの乗り場があります。
イメージ 20
現在の本堂は慶長8年(1603)、豊臣秀頼が片桐且元(かたぎり かつもと)に命じて
再建されました。
寺伝では、聖徳太子によって創建された日本最初の観音霊場とされています。

『14代仲哀天皇の先后大仲津姫は、この地方の豪族大江氏の娘で、
香坂(かごさか)、忍熊(おしくま)の皇子があった。
後の后は神功皇后で、15代応神天皇の母である。
仲哀天皇が亡くなったあと2人の皇子を支持する派と、神功皇后派が対立し、
天下を二分するほどの騒ぎになった。
戦いがはじまろうとした直前、兄の香坂皇子は狩場でイノシシの牙にかかって
不慮の死をとげてしまった。
一説にはイノシシの皮をかぶった、皇后派の刺客に刺されたともいわれている。
戦いがはじまったあと忍熊皇子の軍は利あらず、ついに近江の琵琶湖に
追いつめられて、やがて皇子は入水して果てたのである。
夫帝と皇子ふたりを失った大仲津姫が、孤独の余生をどう送り、
そしていつ亡くなったかは明らかでない。
母子3人はいま中山寺のある大柴谷へ葬られたと伝えられている。
時は流れて31代用明天皇の2年(586)、大仲津姫母子の供養をするようにとの
命を受けた聖徳太子は、この地を訪れて堂塔を建立し紫雲山中山寺と名づけた。
これがこのお寺のはじまりである。』

本尊は十一面観世音菩薩であり、インドの勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の姿を
写した三国伝来の尊像と伝わります。
左右の脇侍も十一面観世音菩薩で、後白河法皇の寄進によるものです。
本尊と脇侍をあわせて三十三面となり、西国観音を総摂すると共に法華経に説く
観音の三十三権変化身を表象し、真の三十三所巡拝と同じ功徳がえられると
云われています。
普段は秘仏となっていますが、正月三ヶ日と毎月18日に開扉されます。
イメージ 21
本堂の前には、賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)が安置されています。
イメージ 22
本堂前の石段を下ります。
イメージ 23
紫雲閣にある納経所で朱印を頂き、中山寺を後にしました。
午前9時、西国二十五番・清水寺へ向かいます。
続く。

御嶽山 清水寺

$
0
0
イメージ 1
国道沿いのローソンで弁当を購入し、JR中山寺駅発9:43の列車で相野へ向かい、
相野駅発10:20の神姫バスで清水寺へ向かいます。
清水のバス停から先は、清水寺専用の道路になり入山料を徴収するゲートが
設置され、バスの運転手が乗車人数を確認して報告します。
ゲートをくぐるともう民家はありません。
つづら折れの登山道路を登り、11:06に清水寺の仁王門前に到着しました。
バスを下車する際に、バスの乗車料金580円と入山料500円を支払います。

播磨地方の山奥の、標高約542mの山の頂に清水寺はあります。
仁王門は、昭和40年(1965)の台風で全壊し、昭和55年(1980)末に旧登山道から
場所を変えて新築されました。
登山道路が開通する以前は、麓から旧登山道を40分くらいかけて
登ってきたそうです。
平成4年(1992)11月に丹塗りの塗装が施されました。
イメージ 2
イメージ 3
仁王像は、大正10年(1921)に岡倉天心に従事した奈良の仏師・菅原大三郎氏に
よって制作され、昭和53年(1978)に大三郎氏の次男、
菅原安男氏によって修復されました。
イメージ 4
山門をくぐると参道は左へとカーブし、緩い登り坂になっています。
イメージ 5
しばらく歩くと手水舎が見えてきます。
イメージ 6
手水舎の手前に薬師堂があります。
薬師堂は、平安時代末期に池之禅尼によって創建されました。
池之禅尼は、平清盛の義母で、平治の乱で捕らえられた源頼朝の助命を嘆願し、
成長した頼朝によって平家が滅ぼされる、きっかけを作った人物かもしれません。
現在の建物は、昭和59年(1984)11月3日に再建されました。
イメージ 7
堂内には、本尊の小さな薬師如来坐像が安置されています。
イメージ 8
イメージ 9
イメージ 10
イメージ 11
イメージ 12
イメージ 13
イメージ 14
周囲の壁面には「十二神将」が掲げられていますが、
そのキャラクターはユニークです。
作者は籔内佐斗司氏で、個人的には好きではありませんが、
平城京遷都1300年記念事業の公式マスコット「せんとくん」の
作者でもあります。
イメージ 15
右に放生池を見て、正面の大講堂へ向かいます。
イメージ 16
大講堂は、神亀2年(725)に聖武天皇の勅願により行基が建立しました。
現在の建物は、大正6年(1917)に再建されました。
本尊は十一面千手観世音菩薩で、本尊の脇侍として、毘沙門天像と
地蔵菩薩像が安置されています。
根本中堂へ向かいます。
続く

御嶽山 清水寺-その2

$
0
0
イメージ 1
朱印を頂き、根本中堂へと続く石段へ向かいます。
イメージ 2
石段を少し上った右側に地蔵堂があります。
地蔵堂は、昭和12年(1937)に常行堂の跡地に建立されました。
現在の建物は、昭和57年(1982)に再建されたものです。
常行堂は、後白河法皇の創建と伝わります。
イメージ 3
本尊は地蔵菩薩です。
イメージ 4
イメージ 5
堂内には、石地蔵が多数安置されています。
イメージ 6
地蔵堂から少し石段を上った左側に鐘楼があります。
鐘楼も大正2年に焼失し、大正9年(1920)に再建されました。
イメージ 7
梵鐘も同年に鋳造されました。
イメージ 8
石段を上りきった所に根本中堂があります。
清水寺は、約1800年前にインドから渡来した法道仙人によって開山されました。
法道仙人は、12代景行天皇の御代、中国から朝鮮半島を経て
御嶽山(みたけさん)に住し、国家鎮護と豊作を祈願したと伝わります。
推古天皇35年(627)に推古天皇の勅願により、根本中堂が建立されたのが
清水寺の創始とされています。
この地は、元々水に乏しかったのですが、法道仙人の祈祷により霊泉が湧き出たと
伝わり、清水寺の名の由来となりました。
現在の建物は、大正6年(1916)に再建されたものです。
根本中堂の本尊は十一面観世音菩薩で、平安時代の末期、開山された法道仙人が
自作されたものと伝わり、三十年に一度開帳される秘仏とされています。
今年は、三十年目に当たり、11月1日~30日まで開帳が予定されているそうです。
大正2年(1913)、根本中堂は焼失しましたが、本尊は自ら退避したと伝わります。
イメージ 9
吒枳尼天尊(だきにてんそん)は、空海によって、日本に持ち込まれました。
白い霊狐(れいこ)に乗った天女の姿として描かれ、
稲荷神(御饌津神 ・みけつかみ)と同一視されています。
イメージ 10
十三重石塔
イメージ 11
聖観世音菩薩像
イメージ 12
根本中堂から左の方に進むと、寺号由来の「おかげの井戸」があります。
イメージ 13
法道仙人の祈祷により湧き出た霊泉で、滾浄水(こんじょうすい)と
名付けられています。
イメージ 14
駒札には、『この井戸を覗き込んで、自分の顔を写したら、寿命が三年延びる』と
記載されています。
写っているようですが、暗くてよくわかりませんし、寿命が三年延びても...と
考えてしまいました。
イメージ 15
「おかげの井戸」から下って来た道を戻ります。
イメージ 16
根本中道の裏側付近に宝篋印塔が建っています。
この塔は、昭和9年(1934)に神戸巡礼会の発願で、
般若心経の写経を3333巻納め、護摩堂の跡地に建立されました。
イメージ 17
宝篋印塔の右側、小高い丘に現在建設予定中の多宝塔(大塔)の跡地があります。
多宝塔は、保元2年(1157)に祇園女御(ぎおんのにょうご)によって建立され、
本尊の五智如来が安置されていました
祇園女御は、妹の子である平清盛を猶子にしたとされ、清盛が
兵衛府(ひょうえふ)に任官されたのも、祇園女御の後押しがあったからと
伝わります。
多宝塔は、明治40年(1907)に焼失し、大正12年(1923)に再建されたのですが、
昭和40年(1965)の台風で大破しました。
イメージ 18
多宝塔の跡地から下って来ると月見亭があります。
夏の終わりに営まれる「二十六夜待」の大法要で、旧暦七月二十六日の
遅い月の出を待つ最適の場所とされています。
仁王門まで戻り、駐車場で弁当を食べているとバスが来ました。
12:08のバスで相野駅まで戻り、13:03発の列車で三田駅へ、
そして番外の花山院へ向かいます。
続く

欣勝寺

$
0
0
イメージ 1
13:14三田駅に到着しました。
花山院行のバスは14:10まで来ませんので、欣勝寺(きんしょうじ)に
行くことにしました。
三田駅から欣勝寺までは徒歩約15分の道のりで、三田市桑原の地にあります。

欣勝寺は、平安時代の天禄年間(970~973)に清和天皇より分かれた
源満仲の開基と伝える真言宗の道場で、桑原山欣浄寺と称された古刹でした。
満仲の一派は、花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した
藤原道兼を警護したと伝わります。
その後、安貞2年(1228)曹洞宗の開祖道元禅師が28歳のとき留学から戻り、
保養のため有馬温泉に入湯した際に、桑原の地に立ち寄りました。
この寺の山が宋の不老山に似ていることから太宋山欣勝寺と命名し、
曹洞宗に改宗されました。
イメージ 2
山門は、安永5年(1776)の建立とありますが、改築されたように見受けられます。
イメージ 3
イメージ 4
山門を入った左側に古井戸があり、この井戸にまつわる民話が残されています。
『戦国時代の弘治2年(1556)、済用禅師がこの寺で隠居して暮らしていた時、
雷の子供が井戸に落ちてしまいました。
「助けてくれ~!!」と大きな叫び声に気が付いた和尚が井戸を覗き込むと、
中に雷の子供を見つけ、あわててふたをして閉じ込めました。
雷の子供は「助けておくれ。桑原には二度と落ちません!!」と約束したので、
和尚は逃がしてやりました。
村の人たちは、雷が鳴ると「ここは桑原・欣勝寺、くわばら、くわばら欣勝寺、
くわばら、くわばら欣勝寺」と唱えるようになりました。』
それ以来、桑原の地には雷が落ちないと伝わります。
尤も、大阪府和泉市桑原町の西福寺(さいふくじ)にも、同じように雷に
まつわる民話が残り、さらに、「桑原」と名の付く
他の土地にも同じような話が伝わっています。
現在では、欣勝寺や西福寺は「雷が落ちない」が転じて、
受験に落ちないとの御利益があるそうです。
イメージ 5
本堂は、古刹に似合わず、新しくて立派なものでした。
本尊は虚空菩薩で、元亀4年(1573)に、安房国(現在の千葉県)清澄寺から
遷され、阪神・淡路大震災の被害を受け平成7年に修復が行われました。
短い滞在でしたが、三田駅に戻りバスで花山院へ向かいます。
続く

花山院-その1

$
0
0
イメージ 1
イメージ 2
14:10三田駅北口発乙原(おちはら)バレイ行のバスで花山院へ向かいます。
花山院は、三田市中心部から北方へ約6キロの東光山の山頂、
標高約400mに位置します。
14:22花山院のバス停から舗装はされていますが、結構急な坂道を歩きます。
坂道には、石仏とともに丁石(ちょういし)が建てられています。
イメージ 3
イメージ 4
更に登って行くと、四丁目の丁石のある所に「琴弾坂(ことびきざか)」の
石碑が建っています。
花山法皇を慕い、都から来た女官たちが女人禁制のために、
ここで琴を弾き慰めた所と伝えられています。
11人の女御は、山の麓に庵を結んで住み着いたとされ、その地を村の人々は、
いつしか「尼寺」(にんじ)と呼ぶようになりました。
でも、尼寺があった訳ではありません。
イメージ 5
イメージ 6
八丁目の丁石の先に、ようやく山門が見えてきます。
バス停から歩いて約20分の距離になります。
イメージ 7
イメージ 8
イメージ 9
イメージ 10
山門はそれほど大きくは無く、安置されている仁王像が窮屈そうに見えます。
イメージ 11
山門をくぐって石段の参道を上ると手水鉢が置かれています。
イメージ 12
身を清め、向きが変わった石段を上ります。
イメージ 13
手前に花山法皇殿、奥に薬師堂と二つの本堂が見えてきます。
イメージ 14
法皇殿の向かいに「花山法皇御廟所」があり、短い石段を上ります。
イメージ 15
御廟所には宝篋印塔が建てられています。
しかし、ウィキペディアでは、法皇は京都御苑の敷地内にあった花山院で崩御され、金閣寺に近い紙屋上陵(かみやがわのほとりのみささぎ)に埋葬されたとあります。
京都の花山院は、花山院家の所有となり、東京奠都まで存続したそうですが
現在は廃されています。
イメージ 16
御廟所から右に下って行くと、法皇の御廟所より大きな宝篋印塔が建ち、
周囲には小さな五輪塔が置かれています。
こちらの方が気になっていたのですが、聞きそびれてしまいました。
イメージ 17
イメージ 18
宝篋印塔の奥には、幸福(しあわせ)の七地蔵が祀られています。
七体の地蔵には、家庭、そして自分が幸福になるように様々な知恵を
授けてくれます。
各地蔵は、役割を象徴する“もの”を持って、救いの手を差し伸べています。
イメージ 19
イメージ 20
七地蔵の横に「瑠璃光殿」の扁額が掛る薬師堂があります。
花山院は、飛鳥時代の白雉2年(651)に法道仙人によって、薬師瑠璃光如来を
本尊とする密教修行の聖地として創建されました。
当初は「紫雲山・観音寺」と称していました。
法道仙人は、清水寺をはじめ播州地域にいくつかの寺院を開基したと
伝わっています。
イメージ 21
堂内には、本尊・薬師瑠璃光如来の脇侍に日光・月光の両菩薩像が配され、
両脇を十二神将によって守護されています。
もう一つの本堂、花山法皇殿へ向かいます。
続く

花山院-その2

$
0
0
イメージ 1
薬師堂の左横には小さな池があり、多分?弁財天が祀られた祠があります。
イメージ 2
薬師堂と池をはさんで、もう一つの本堂、花山法皇殿があります。
花山法皇殿の本尊は、十一面観音です。
十一面観音像の右側には花山法皇像が、
左側には弘法大師像が安置されています。
イメージ 3
法皇殿には、法皇が詠まれ、花山院の御詠歌にもなっている歌が記された額が
奉納されています。
左側の額は、百観音霊場巡拝結願を記念して奉納されたものです。
日本百観音とは、西国三十三所・坂東三十三箇所・秩父三十四箇所を
総合した日本を代表する100の観音霊場を指すそうですが、
西国三十三所でもかなり苦労しているのに、その3倍近くは
想像する気にもなりません。
イメージ 4
賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)も各お寺によって微妙に異なります。

正暦3年(992)頃、三十三の観音霊場を巡礼した花山法皇が、
播磨清水寺に登った際に東方の山上が光り輝くのを見て訪れ、
ここを隠棲の地とし、14年間滞在しました。
これに因み、山の名が東光山と呼ばれるようになり、花山法皇亡き後、
花山法皇殿が建立され、寺の名称も東光山・菩提寺と改められました。
花山院は通称です。
イメージ 5
花山法皇殿から左側に進むと、小さな祠があります。
イメージ 6
小さな祠の左側に、修行大師像が建っています。
イメージ 7
大師像から左に進むと荒神堂があり、三宝荒神が祀られています。
三宝荒神は、仏・法・僧の三宝を守護する仏神とされています。
三つの顔と六本の腕を備え、怒りの形相を示し、不浄を忌み、火を好むことから、
かまどの神として祀られることもあります。
イメージ 8
荒神堂から左に行くと開けていて、右側に本坊があります。
イメージ 9
左側に鐘楼があります。
イメージ 10
正面に不動堂があります。
イメージ 11
不動堂の左側に展望台があり、正面に有馬富士が望めます。
花山法皇は、「有馬富士 麓の霧は海に似て 波かと聞けば 小野の松風」と
詠みましたが、このような光景は冬の早朝に、
運が良ければ見ることができるそうです。
イメージ 12
有馬富士から右側を見ると、ダム湖である千丈寺湖が望めます。
イメージ 13
奥にある納経所で宝印を頂き、山を下ります。
行きには気付かなかったのですが、バス道に出る手前に天満神社がありました。
イメージ 14
手水舎
イメージ 15
本殿
イメージ 16
本殿の左側の社殿
イメージ 17
本殿の右側にある大歳神社
イメージ 18
大歳神社の左側、山の小さな窪みに紙垂(しで)が垂らされていたのが
気になりました。
イメージ 19
紙垂が垂らされた窪みの前に小さな祠がありました。
この神社の詳細は不明ですが、何か興味が引かれました。
イメージ 20
バス道を横切って100mほど下って行くと、十二妃の墓があります。
イメージ 21
イメージ 22
大きな五輪塔が、寵愛した女御・藤原忯子(ふじわらの しし)の墓で、
その周囲は花山法皇を追ってここまで来た11人の女御のものとされています。
藤原忯子は、永観2年(984)に入内(じゅだい)し、
弘徽殿(こきでんの)女御と呼ばれました。
懐妊しましたが、寛和(かんな・985)元年に17歳の若さで亡くなりました。

次回、一泊2日の行程で、花山法皇が滝籠りをされた那智の滝を再度訪れ、
熊野三山を巡りたいと計画しています。
また、寺社に液体をまく事件が発生しましたが、絶対に許せない!!
古来からの日本人の信仰に対して、冒涜するものであり、
日本の文化を破壊する行為でもあります。
犯人を絶対に逮捕して、厳罰に処してほしいと願います。

熊野本宮大社

$
0
0
イメージ 1
紀伊田辺駅
太古から熊野は死者の国、伊弉冉(いざなみ)が赴いた黄泉(よみ)の国と
考えられていました。
平安時代末期になると、熊野では神仏が習合し、神々は本地仏が仮の姿をとって
現れたものとされるようになりました。
熊野本宮大社の本地仏は、阿弥陀如来で西方極楽浄土、速玉大社の本地仏は、
薬師如来で東方浄瑠璃浄土、そして那智大社の本地仏は、千手観音で
南方補陀落浄土の地であると考えられ、平安時代以降には熊野全体が
浄土の地であるとみなされるようになりました。
熊野御幸(くまのごこう)と呼ばれる貴族や上皇・女院の参詣が
さかんになっていきます.
やがて、それは庶民にも広まり熊野詣と呼ばれるようになりましたが、
熊野への道程は、京都からは約1ヵ月もの日数が必要でした。
その熊野詣を一泊二日の強行スケジュールで行ってきました。
早朝、京都5:43発の快速・網干行で新大阪まで行き、新大阪で6:15発の
紀州路快速・湯浅行に乗換え、7:49に和歌山駅に到着しました。
この紀州路快速は、4両しか連結していませんので、始発駅である新大阪駅から
和歌山まで混みあっていました。
和歌山駅の改札口を出た所にあるセブンイレブンで、朝食と昼食の弁当を購入し、
8:05発の各駅停車・紀伊田辺行に乗込みました。
イメージ 2
熊野古道号
車中で朝食を済ませ、9:55に紀伊田辺駅に到着、駅前から明光バス10:18発の
快速・熊野古道号で本宮大社へと向かいました。
バス内で昼食を済ませ、本宮大社前に11:50に到着。
イメージ 3
本宮大社の大鳥居に向かいます。
鳥居の前の、波と八咫烏の大きな垂れ幕が目を引きます。
イメージ 4
「熊野大権現」の旗が参道の両側にたなびいています。
イメージ 5
参道を進み、短い石段を上った左側に功霊社があり、
戦没者の英霊が祀られています。
イメージ 6
功霊社の上手に祓戸大神(はらえどのおおかみ)が祀られています。
祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことであり、祓戸大神とは祓を司どる神
であることから、本宮大社に参拝する前に参っておきたい所でもあります。
イメージ 7
祓戸大神から石段を上った所に手水舎があります。
イメージ 8
手水舎で身を清め、少し上れば神門が見えてきます。
イメージ 9
石段を上った左側に社務所があります。
イメージ 10
社務所前に「たらようの木」が植えられています。
インド原産の常緑樹で、古くは葉の裏に針等で経文や手紙を書いたと云われ、
「葉書」の語源ともなりました。
イメージ 11
「たらようの木」の横に、黒く塗られた八咫烏ポストが設置されています。
このポストに手紙や葉書を投函する前に、社務所で「出発の地より心をこめて
 熊野本宮」というスタンプを、押してもらうことができます。
イメージ 12
イメージ 13
ポストの横から正面に進んだ所に拝殿があります。
イメージ 14
授与所
イメージ 15
授与所の奥に旧社号標「熊野坐神社(くまのにいますじんじゃ)」が建っています。
平安時代初期に編纂された延喜式神名帳に「熊野坐神社」の記載が残され、
明治4年(1871)に正式社号として登録されました。
この社号標は、時の首相・近衛文麿の揮毫(きごう)により、
昭和15年(1940)1月に建立されました。
イメージ 16
旧社号標が建つ奥は立入禁止になっています。
鳥居などが立ち並んでいて気になる場所です。
イメージ 17
神門から内部は撮影が禁止されています。
社殿は、右に第四殿の東御前があり、若宮とされ、天照大神が祀られています。
第四殿の左が、第三殿の本宮の証誠殿で、家津美御子大神(素戔嗚尊)が
祀られています。
第三殿の左が、横長に大きい結宮で、第二殿は中御前で、速玉大神が
祀られています。
結宮の第一殿は西御前で、夫須美大神が祀られています。
社殿が並ぶ左側にひっそりと満山社の小さな社があります。
以前は四方に木が植えられ、四辺を数十個の丸い石で縁取られた中央に、
半分ほど埋められた丸石(玉石)を祀っただけでした。
社殿は平成19年(2007)に115年ぶりに復興されました。
祀られている玉石は、結ひの神・八百万の神とされ、親と子の結ひ、
夫婦の結ひ等人と人の縁を結ぶ再生の玉石と紹介されています。

境内には「おがたまの木」が植えられています。
神木・霊木として古代から神聖視されきたモクレン科の常緑樹です。
「招霊」(おぎたま)から転化したもので、和歌、俳句の季語にも
用いられています。
日本神話においては天照大神の天岩戸隠れにおいて天岩戸の前で舞った
天鈿女命(アメノウズメノミコト)が手にしていたとされ、
古くには榊などとともに神前に供える木として用いられました。
このことから地方に於いては、真榊とも言います。
果実がはぜて中の真っ赤な種子が見える姿より神楽鈴が考え出されたと
伝えられています。
また平成4年(1992)に皇太子殿下が参拝され、その時に記念植樹された
梅の木がきれいな花を咲かせていました。
和泉式部の祈願塔とされる笠塔婆には、以下のような伝説が残されています。
「本宮大社まであともう少しというとき、月のしるし(月経)があらわれます。
そのとき式部は歌を詠みました。
晴れやらぬ 身の浮き雲の かさなりて(棚ひきて) 
月のさはりとなるぞくるしき(悲しき)
遠い昔、神社参拝に血の穢れは禁物とされていました。
式部も月のしるしがあらわれた身では参詣できないという嘆きを歌に託し、
ここから熊野本宮大社を伏して拝んだのです。
するとその夜、熊野権現が夢の中に現れ、式部に歌を返しました。
もろともに 塵にまじはる神なれば 月のさはりも何かくるしき
和光同塵の神であるから遠慮せず参詣するように、とのお告げです。
こうして式部は晴れ晴れとした気持ちで、無事に参詣を果たすことが
できたのでした。」
産田社へ向かいます。
続く

大斎原

$
0
0
イメージ 1
本宮大社から5分くらい歩いた所に産田社があります。
イメージ 2
産田社は本宮大社の末社で、祭神は伊邪那美尊(イザナミノミコト)が
祀られています。
伊邪那美尊は、八百万の神々をはじめ、総てを産みだされた
「産土(うぶすな)」の神であります。
イメージ 3
産田社から田んぼのあぜ道を通って大斎原(おおゆのはら)へ向かいます。
イメージ 4
大斎原への道は広くはなく、本宮大社からそれほど離れていないのに、
参拝する人が少ないように感じます。
イメージ 5
大斎原に建つ鳥居は、幅約42m、高さ約34mの日本一の大鳥居で、
鉄筋コンクリート造り、平成12年(2000)に完成しました。
子供の頃、近くの神社の鳥居に小石を放り投げて、鳥居の上に乗せて遊んだ
思い出がありますが、この鳥居ではそんなことは到底不可能です。
イメージ 6
杉の巨木が立ち並ぶ参道の先に、神聖な場所であることを示す何かが感じられます。
是より先、撮影が禁止されています。

第十代崇神天皇の御代、猟師が山の奥で大きな猪を射止めました。
射抜かれた猪は血を流しながら逃げたので、猟師も後を追いました。
大斎原まで来ると、猪は櫟(いちい)の巨木の下で力尽きて
ぐったりと倒れています。
猟師はその場で猪の肉を食べ、満腹になったので木の下で眠りこけてしまいました。
やがて夜になり、目覚めた猟師がふと宙を見上げると、
木の枝の先に掛かっているのは三体の月。
何事かと驚いた猟師は月に問いかけます。
「なぜここに掛かっているのだ」。
すると真ん中にある月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、
両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。
社殿を創って齋き祀れ」と答えました。
この神勅により、615年、熊野本宮大社の社殿が熊野川・岩田川・音無川が
合流する大斎原の中州に創建されたと伝わります。
江戸時代まで中洲への橋がかけられる事はなく、参拝に訪れた人々は
歩いて川を渡り、着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりでした。
音無川の冷たい水で最後の水垢離を行って身を清め、神域に訪れたのです。
当時、約1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、
現在の数倍の規模だったそうです。
残念ながら明治22年(1889)の熊野川水害により中洲にあった旧社殿は、
中・下社が倒壊し、倒壊を免れた上四杜のみが丘陵にある現在地に遷されました。
中四社及び下四社と摂・末社の社殿は再建されることなく、
大斎原に2基の石祠として残されています。
イメージ 7
河原は今も広く、水の流れは穏やかです。
イメージ 8
築かれた高い堤防が、荒れ狂った時の川の凄さを物語っているように思えます。
イメージ 9
今回、時間の都合で宝物殿を拝観することができませんでしたが、
宝物殿には国の重要文化財に指定されている鉄湯釜が展示されています。
かって、この中州で湯立て神事が行われ、その際に使用されていたもので、
建久9年(1198)の銘があり、建久8年在銘の東大寺大湯屋のものに次ぐ古い釜です。
「熊野権現垂迹縁起」では大斎原が「大湯原」と表記されています。
古来からこの河原で、大釜に湯を沸かし、神のお告げを伺ったのではないかと
想像されます。
本宮大社前13:21発のバスで熊野速玉大社へ向かいます。
続く

熊野速玉大社

$
0
0
イメージ 1
14:22に権現前のバス停に着き、ここから西に進んだ所に熊野速玉大社があります。
「下馬橋」と言っても下に水が流れている訳でもありませんが、
その橋を渡った先に一の鳥居が建っています。
イメージ 2
鳥居をくぐった先に佐藤春夫の句碑が建っています。
「秋晴れよ 丹鶴城(たんかくじょう)址 児にみせむ」
佐藤春夫は、新宮で生まれ育ち、速玉大社の近くに記念館がありますが、
時間の都合で拝観はできません。
尚、丹鶴城とは新宮城のことです。
イメージ 3
句碑の先、参道は右に折れ、その先に二の鳥居が建っています。
イメージ 4
二の鳥居の先の右側に八咫烏神社と手力男神社が並んでいます。
八咫烏神社の祭神は建角見命(たけつぬみのみこと)で、末社として古くから
丹鶴山麓に奉祀されていたのですが、昭和37年(1962)に現在地に遷されました。
手力男(たぢからお)神社の祭神は天手力男命(あめのたぢからおのみこと)で、
延喜式神明帳に「紀伊国牟婁郡 手力男命神社」とある式内社で、
元は神門内にあったが、弘仁4年(813)に嵯峨天皇の勅命により
現在地付近に遷されました。
イメージ 5
二社の先に熊野神宝館がありますが、やはり時間の関係で素通りします。
しかし、総数1,000点を超える古神宝類が保存されているとのことで、
またいつか機会があればぜひ立ち寄りたいと思っています。
イメージ 6
神宝館の前に弁慶像が建っています。
弁慶の出自は、速玉神社に仕えた熊野三党の一つ、鈴木一族とされています。
源義経の叔父である新宮十郎行家は、新宮別当家嫡流の
行範(のちに19代熊野別当に就任)の妻となった
鳥居禅尼(たつたはらの女房)の同母弟として生まれ、
しばらく熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と称しました。
都落ちした義経と行動を共にし、北条時定の手兵によって捕らえられ、
長男・光家、次男・行頼とともに斬首されました。
義経と新宮十郎、そして弁慶と何らかの関係性が想像されます。
イメージ 7
扇立祭の舞台
扇立祭は、毎年7月14日の午後5時~午後9時に行われる例祭で、 
国宝桧扇の写しが神前に開帳され、神事が執り行われるそうです。
当日は夜店が並び、納涼を兼ねた紀南最大の夏祭りになるそうです。
この舞台は、祭りの日にどのように使われるのでしょうか...?
イメージ 8
熊野神宝館の向かい側に、御神木である梛(なぎ)の大樹が葉を茂らせています。
平安時代の平治元年(1159)に、熊野三山造営奉行であった平重盛が、
社殿の落成の際に手植えしたと伝わります。
樹高約20m、幹回り約6m、樹齢は850年余りとされ、ナギとしては国内最大で、
国の天然記念物に指定されています。
ナギは凪に通じることから、神木として植樹されることが多く、
ナギの実を束ねたものやナギの枝を護符にします。
イメージ 9
熊野神宝館の先、左側にある大禮殿は鉄筋コンクリート造りです。
イメージ 10
熊野神宝館の先。右側には手水舎があります。
イメージ 11
手水舎の奥に熊野稲荷社があります。
イメージ 12
神門をくぐります。
イメージ 13
拝殿
イメージ 14
拝殿の奥に結宮、速玉宮、少し小さ目な奥御前三社殿、上三殿
イメージ 15
上三社殿
イメージ 16
下八社殿

第一殿、結宮、祭神:熊野夫須美大神(熊野結大神)
第二殿、速玉宮、祭神:熊野速玉大神
奥御前三社殿は、境内摂・末社
上三殿、第三殿、証誠殿、祭神:家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)・
国常立尊(くにのとこたちのかみ)      
    第四殿、若宮、祭神:天照大神
        神倉宮、祭神:高倉下命(たかくらじのみこと)
八社殿、中四殿、第五殿、禅児宮、祭神:天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
        第六殿、聖宮、祭神:瓊々杵尊
        第七殿、児宮、祭神:彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
      第八殿、子守宮、祭神:鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
    下四社、第九殿、一万宮、祭神:国狭槌尊(くにのさづちのみこと)
            十万宮、祭神:豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)
        第十殿、勧請宮、祭神:泥土煮尊(うじにのみこと)
        第十一殿、飛行宮、祭神:大戸道尊(おおとのじのみこと)
        第十二殿、米持宮、祭神:面足尊(おもたるのみこと)

熊野速玉大社は、熊野速玉大神(イザナギノミコト)、と
熊野夫須美大神(イザナミノミコト)を主祭神としています。
速玉は映霊で、イザナギノミコトの映え輝くばかりの力強い神霊の意で、
夫須美はイザナミノミコトの万物を産み成し、幸を給う女神としての大神徳を
称えた御名とされています。
熊野三山の中心となる熊野速玉大神・熊野夫須美大神・家津美御子大神の神々が、
神代の頃に神倉山に降臨されました。
景行天皇の58年(128)に、現在地に社殿が造営され3柱の神々が遷され、
神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ばれるようになりました。
イメージ 17
境内の右側に参集殿があります。
イメージ 18
参集殿横の植え込み
天皇の歌碑が建てられています。
イメージ 19
境内の左側に東門があります。
イメージ 20
東門の左側に熊野恵比寿神社があります。
イメージ 21
耳の遠い恵比寿様に気付いてもらえるように木槌が用意されています。
イメージ 22
熊野恵比寿神社の左側に新宮神社があります。
神倉山へ向かいます。
続く

熊野速玉大社~神倉神社

$
0
0
イメージ 1
清閑禅院山門
熊野速玉大社から神倉山へは、徒歩10分の距離です。
イメージ 2
清閑禅院の本堂は、江戸時代の安永6年(1777)に再建されたました。
総桧造りで、新宮市の文化財に指定されています。
イメージ 3
清閑禅院のお堂
イメージ 4
清閑禅院の先に松巌院がありますが、詳細は不明です。
イメージ 5
本堂
イメージ 6
鐘楼
イメージ 7
お堂
イメージ 8
松巌院から山手の方に行くと渡御前社があります。
イメージ 9
落石防止の防護ネットが張られているよう所にあります。
イメージ 10
渡御前社は、熊野速玉大社と神倉山のほぼ中間の場所にあり、
熊野速玉大社の境外末社です。
現在の社殿は、昭和46年(1971)に再建されたものです。
この地は、神武東征の際、頓宮が置かれた跡と伝わり、神武天皇が祀られています。
イメージ 11
宗応寺は、聖徳太子によって創建され、熊野速玉大社の神宮寺であったと伝わる、
新宮市で最古刹のお寺です。
元は新宮城跡の丹鶴山南麓にあり、その時の寺号は崗輪寺(こうりんじ)でした。
築城に伴い1600年代の初めに現在地に移転し、曹洞宗に改宗しています。
鐘楼門が、歴史を感じさせています。
イメージ 12
現在の本堂は、近代的なものに建て替わっていました。
イメージ 13
宗応寺の先、用水路沿いに進んだ先に妙心寺があります。
イメージ 14
神倉神社の本地仏である愛染明王を祀る尼寺ですが、現在は無住で、
熊野速玉大社 の管理下にあります。
妙心寺は、平安時代の初期に円仁よって 創建された天台宗の寺院でした。
円仁建立と刻銘された法華供養石碑が境内に伝わっています。
かつて神倉神社の管理運営、特に修理造営を担った神倉聖の拠点・
神倉本願の一つでした。
一方、寺伝によると、平安時代の天仁2年(1109)、鳥羽院の熊野御幸に供奉した
永信尼(えいしんに)が住し、大治3年(1128)には白河院の女院が、
当寺で心妙なる霊夢を得たことから寺を建立、寺号「妙心寺」としたと伝わります。
鎌倉時代には法燈国師覚心が母とともに入寺したと伝え、
勧進聖の拠点寺院となりました。
覚心は臨済宗法燈派の開祖である一方、聖や比丘尼の組織化を図り、
妙心寺は神倉聖や熊野比丘尼を統率する神倉本願になったと考えられています。
南北朝期の動乱で荒廃した神倉神社の復興に際して、延徳元年(1489)、
妙順尼が勧進を行い、さらに大永年間(1521~1528)から享禄4年(1531)まで
弟子の祐珍尼(ゆうちんに)らとともに諸国を巡って奉加を募り、
これによって神倉神社の再興を成し遂げました。
天正16年(1588)10月16日には、豊臣秀長の木材奉行の放火により
神倉神社が焼失しました。
翌年には祐心尼のほか、金蔵坊祐信(当山派)および熊野新宮の楽浄坊行満
(本山派)の2人の修験者の協力を得て西国9ヶ国に勧進に赴き、
神倉神社を再建しています。
中世末から近世所期にかけて、多くの熊野比丘尼らを配下にもつ
本願寺院として栄えました。
荘園を失い、参詣者も減り、経済基盤が揺るぎだした熊野三山の運営資金を
集めるために熊野比丘尼は諸国を巡り歩きました。
しかし、近世には熊野三山の運営の中心であった社家の勢力におされ、
力を失い困窮の度を深めていきました。
公家の息女が数代入寺するなど、門跡尼寺として格式を喧伝(けんでん)した
のですが、明治の神仏分離令により神倉神社と分離され、その後無住となりました。
毎年2月6日に行われる御燈祭では、上り子たちが神倉山上に上る前に参詣する
潔斎の場となっています。
妙心寺から神倉神社までもうすぐです。
続く

神倉神社

$
0
0
イメージ 1
神倉神社へは太鼓橋を渡ります。
太鼓橋の風情ある景観に、道路標識は似合いません。
イメージ 2
橋のたもとに立つ「下馬」と刻まれた石碑は、高さ1.59m、幅43cm、
厚さ17cmで、高さ26cm、幅80cmの台石の上に建てられています。
江戸時代の寛文12年(1672)の銘があり、奥州の南部志和郡の人物が、
子孫繁栄を祈念して熊野参詣7度を達成したことを記念して寄進されました。
イメージ 3
橋を渡った右側に社務所がありますが、無住のようです。
イメージ 4
社務所の奥に、猿田彦神社・神倉三宝荒神社があります。
橋の左側に戻ります。
イメージ 5
神仏習合の名残である両部鳥居が建っています。
イメージ 7
鳥居の先は、建久4年(1193)に源頼朝が寄進したと伝わる、
鎌倉式石段の急な登り坂が続きます。
イメージ 6
石段は、538段あるそうで、200段ほど上った所に、右に中の地蔵堂、
左に火神社があります。
火神社とは、文字通り火の神、奥津彦神・奥津比女命が
祀られているのでしょうか?
それにしてもストーレートな社名だと思いました。
イメージ 8
中の地蔵堂から先、坂が少し緩やかになったように感じます。
イメージ 9
下の鳥居から10分くらい上って来ると、
ゴトビキ岩への鳥居が見えてきます。
イメージ 10
イメージ 11
鳥居の手前、右側の山手に八百萬神を祀る満山社があります。
イメージ 12
鳥居をくぐると右側に手水鉢が置かれています。
この手水鉢は、高さ60cm、幅1.9m、奥行き91cmあり、
黒雲母花崗斑岩の巨大な一枚岩を加工して作られています。
寛永8年(1631)2月に新宮城第2代城主の水野重良によって寄進されました。
イメージ 13
手水鉢の先に巨大な岩が見えてきます。
神武東征に記されている「天磐盾(あめのいわたて)」は、
真にこの山だと思えてきます。
神武天皇が天磐盾に登った時、天照大神の子孫の高倉下命は、
神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で
軍を進め、熊野・大和を制圧したとされています。
この岩は「ゴトビキ岩」と呼ばれ、ゴトビキとは新宮の方言で
ヒキガエルをあらわすそうです。
手水鉢の付近で、カエルらしき鳴き声が聞こえました。
イメージ 14
イメージ 15
岩の前には社殿が設けられ、高倉下命(タカクラジノミコト)と
天照大神が祀られています。
神倉神社の創建年代は128年頃と云われ、熊野三山の中心となる
熊野速玉大神・熊野夫須美大神・家津美御子大神の神々が、
最初に降臨された所と伝わります。
しかし、ゴトビキ岩の下からは弥生時代の銅鐸の破片が発掘されていることから、
太古から磐座信仰の地になっていたのだろう推測されます。
イメージ 16
標高約120mからの眺望は素晴らしく、熊野灘が一望できます。
古来から人々は、この景観の中に神が宿るのに相応しい場所と
感じていたのでしょう。
下山して、自分が今晩宿る所に向かいます。
続く

阿須賀神社

$
0
0
イメージ 1
神倉山から下山して、浮島を見て宿に向かう予定でしたが、道を間違え
JR新宮駅から那智よりに少し通り過ぎた所に出てしまいました。
宿の近くに徐福公園がありましたので、立ち寄ってみました。
徐福公園は、新宮駅前にあり、極彩色の中国風の楼門は
周囲の景観から浮いているように見えます。
イメージ 2
園内に入ると、徐福像が建っています。
イメージ 3
不老の池があります。
池の石柱には、七重臣が有していた七つの徳「和」「仁」「慈」「勇」
「財」「調」「壮」が刻まれ、橋を渡ると不老になるとか...
池の畔には、徐福が発見したと伝わる「天台烏薬(てんだいうやく)」が
植えられています。
天台烏薬は、クスノキ科の常緑低木で、不老不死の霊薬の木と伝えられ、
新宮市の木に指定されています。
イメージ 4
公園には、徐福のものとされる墓もあります。
徐福は今から二千二百年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、
その命により、東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて
三千人の童男童女を引き連れ、熊野に渡来したと伝わります。
しかし、この地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の
技術を伝えたと言われています。
墓碑は、高さ1.4m、幅50cmの緑色片岩で、紀州藩祖徳川頼宜により
元文元年(1736)に建立されました。
この公園は、墓碑を中心に平成6年(1994)に整備されました。
イメージ 5
宿にチェックイン後、急いで阿須賀神社へ向かいます。
阿須賀神社は、新宮駅からでも歩いて約10分の距離にあります。
神明鳥居(しんめいとりい)をくぐり、石畳の参道を進みます。
イメージ 6
「神武天皇聖蹟熊野神邑顕彰碑」が建っています。
神邑は、「みわのむら」と読み、「神霊が宿る地」という意味を持っています。
神武天皇は名草戸畔(なぐさとべ)を制圧した後、狭野(佐野)を越えて、
熊野神邑に至り、天磐盾に登りました。
そして、渡御前社に頓宮を置きました。
イメージ 7
阿須賀神社は、熊野神邑の地に第五代孝昭天皇53年に創祀されたと伝わります。
また、境内からは弥生時代の竪穴式住居趾や土器類などが出土され、
背後の蓬莱山には古代祭祀遺跡が残されています。
蓬莱山は、かっては島であって原始期の磐座でありました。
南北110m、東西90m、標高48mで、北側は熊野川に面し、熊野川によって
運ばれた土砂によって陸続きになりました。
神倉山に降臨した熊野三山の中心となる熊野速玉大神・熊野夫須美大神・
家津美御子大神の神々が、次に蓬莱山に遷ったとされています。
家津美御子はさらに貴袮谷に遷ったが、熊野速玉大神・熊野夫須美大神の
二神はそのまま蓬莱山に留まりました。
第十代崇神天皇の御代に家津美御子はさらに熊野川上流の
音無の里(本宮)に遷り、熊野速玉大神・熊野夫須美大神は
第十二代景行天皇の御代に今の新宮に遷座したとされています。
イメージ 8
徐福は、蓬莱山の南東約100mの熊野川畔に上陸したとされ、
記念碑が建てられています。
境内には徐福を祀る徐福之宮があります。
イメージ 9
徐福之宮の左側に阿須賀稲荷神社があります。
イメージ 10
拝殿
イメージ 11
本殿
阿須賀神社の社殿は、嘉永7年(1854)に第13代将軍家定によって再建され、
並宮・拝殿・御供所・鐘楼堂・四脚門・鳥居・社僧行所などが建立されましたが、
太平洋戦争で焼失しました。
現在の社殿は、昭和51年(1976)に再建されたものです。
イメージ 12
本殿の左側には、子安の社があります。
イメージ 13
また、本殿の左側には、阿須賀王子の碑が建てられています。
平安時代後期から12世紀前半までの中世熊野参詣では、阿須賀神社に
参詣することが常であったと見られ、九十九王子には含まれてはいませんが、
王子社としての扱いを受けていたとみられています。
阿須賀神社に 隣接して新宮市立歴史民俗資料館があり、蓬莱山経塚や
阿須賀遺跡の出土品のほか、新宮城や熊野信仰などに関する資料が
展示されているいるそうですが、開館時間を過ぎていました。
宿に戻り体力を回復します。
続く

新宮城跡

$
0
0
イメージ 1
6時に宿に出て、昨日行けなかった浮島へ向かいます。
新宮で見る朝日です。
イメージ 2
イメージ 3
残念ながら「浮島の森」の開場時間は午前9時からなので、外からチラッと
しか見ることができませんでした。
イメージ 4
縄文時代前期の海進期には、海岸線が現在の新宮市街に大きく侵入していて、
現在の新宮市中心市街の全体が入江状の湾(内湾)になっていました。
縄文時代の中期から終わりにかけて、海岸線が後退を始めるとともに、
池沼や潟湖からなる湿地帯が広がるようになりました。
そこに、沼池で枯死した植物の遺体が泥炭状に堆積し、水位が上がったことで
浮島になったと考えられています。
近世以前には神倉神社を拠点とする神倉聖の聖地・行場になっていたと
みられています。
イメージ 5
「浮島の森」は「新宮藺沢浮島植物群落(しんぐういのそうきしましょくぶつ
ぐんらく)」として昭和2年(1927)に国の天然記念物に指定されました。
入り口前には、指定されたのを記念して昭和11年に造られた
石碑が建てられています。
以前は森の西口に建てられていたそうです。
イメージ 6
また、「おいの」という娘の像も建てられています。
浮島には「おいの伝説」と呼ばれる伝承が残されています。
『この島の付近に、おいのという娘が住んでいた。ある日、おいのは、
父親とともに薪採りに島に渡った。昼飯時に弁当を開いた父娘だったが、
箸を忘れてきたことに気がついた。
おいのは、アカメガシワの枝を折りとって箸の代わりにしようと、
森の奥深くに入っていったが、なかなかもどってこない。
怪しんだ父親が探しに行くと、まさに娘が大蛇に飲み込まれようとしている
ところであった、驚いた父親が助けようとしたが、娘は蛇の棲む底なしの井戸に
ついに引き込まれてしまった。』
島には、「蛇の穴」と呼ばれる沼があり、伝説の井戸であると言われています。
上田秋成はこの伝説に題材をとり、『雨月物語』の一編「蛇性の婬」を著した
といわれています。
後にこの作品は、谷崎潤一郎によって戯曲化されました。
新宮城跡へ向かいます。
イメージ 7
新宮城は、元々は源為義の娘である丹鶴姫(たんかくひめ)の住まいであった
ことから「丹鶴城」とも呼ばれ、また熊野川河口の先に太平洋を眺められる
ことから「沖見城」とも称されました。
城跡は「新宮城跡附水野家墓所」として国の史跡に指定されています。
もともと田鶴原と称されたこの地には、平安時代末に熊野三山を支配した
熊野別当の別邸がありました。
熊野別当の娘と源為義はが結ばれ、誕生したのが丹鶴姫です。
丹鶴はのちに熊野別当第19代となる行範(ぎょうはん)に嫁ぎ、
行範が死去すると大治5年(1130)、丹鶴山に夫の菩提を弔う東仙寺を建立しました。
慶長6年(1601)、紀州藩主となった浅野幸長の重臣・浅野忠吉が築城を開始し、
丹鶴山にあった東仙寺および崗輪寺(こうりんじ)を移転させ、
翌年に城は築かれました。
元和元年(1615)一国一城令で廃城となりましたが、元和4年(1618)に
築城が認められ、浅野忠吉が築城に着手しました。
翌年、浅野氏は備後三原の三原城(現在の広島県三原市)へ転封し、
徳川頼宣が紀州藩主として入国して以後、付家老・水野重仲(重央)が
城主となりました。
重仲は浅野氏の築城を継続し、寛永10年(1633)に3代にわたって続けられた
築城が完成しました。
しかし、明治6年(1873)に発布された「廃城令」により、旧藩士に
土地・建物が払い下げられ、建物は全て壊されました。
昭和27年(1952)、鐘ノ丸跡を中心とした民営の旅館「二の丸」が開業し、
日本一短いといわれたケーブルカーが設置されました。
その後、城の敷地は新宮市によって買収され、丹鶴城公園として
整備が開始されました。
ケーブルカーの運行は、昭和55年(1980)11月、美智子妃殿下(当時)の訪問時が
最後となり、廃されました。
イメージ 8
門を入ると、石段が続きますが、石段の左側は二の丸があった所で、
現在は保育園になっています。
イメージ 9
この石段を上った所が松の丸で、近々開催される桜祭りに備えて
提灯が吊るされています。
イメージ 10
松の丸から天守台の石垣が望まれます。
イメージ 11
左側からは本丸跡が望まれます。
イメージ 12
松の丸から鐘の丸へと進むと、速玉大社方面が望めます。
イメージ 13
鐘の丸から天守台の方に進んだ所に、
室町時代のものとされる五輪塔がありますが、詳細は不明です。
イメージ 14
天守台からは、新宮市内と遠くに熊野灘を望めます。
イメージ 15
天守台の上、左側が本丸跡で、上に見える建物はトイレです。
イメージ 16
本丸跡
イメージ 17
本丸跡には井戸がありました。
イメージ 18
井戸から下ります。
鳶が輪を描いていました。
イメージ 19
熊野川が望めます。
熊野川には港が築かれていて、建物跡が発見されています。
イメージ 20
公園の下をJR紀勢線が貫いています。
公園を後にして新宮駅へ向かいます。
イメージ 21
新宮駅7:54発の普通列車で那智駅へ向かいます。
続く

大門坂

$
0
0
イメージ 1
新宮駅前のコンビニで弁当を購入し、新宮駅発7:54の普通列車に乗車し、
那智駅に8:12に到着しました。
那智駅の横は海ですが、いったん駅を出て、線路の下をくぐらなければ、
海岸へは出れません。
8:33発の熊野交通バスで大門坂駐車場へ向かいます。
イメージ 2
8:49にバス停に着き、バス道から離れて大門坂を登ります。
イメージ 3
しばらく進むと新宮藩の関所跡があります。
石造りの流し台と石船が遺構として残されています。
イメージ 4
関所跡の向かいには、南方熊楠が三年間滞在したという大坂屋旅館跡があります。
大坂屋旅館は、大正15年(1926)に廃業し、南方熊楠が滞在したとされる離れは
昭和8年(1933)に焼失しました。
イメージ 5
関所跡の先に鳥居が建っています。
イメージ 6
鳥居の傍らには、「下馬」の石標が建っています。
イメージ 7
振ヶ瀬橋(ふりがせばし)を渡ります。
那智の聖域と俗界とを分かつ橋と言われています。
イメージ 8
橋を渡った先に鏡石と呼ばれる祈り石があります。
イメージ 9
鏡石の先に大門坂茶屋があり、平安衣装の貸し出し(有料)を行っている
そうですが、前回も今回も残念ながら平安衣装で参詣する方を見かけることは
ありませんでした。
イメージ 10
茶屋の先に夫婦杉と呼ばれる樹齢約800年の二本の杉が門柱のように聳えています。
木の高さは50m以上あり、胸高幹周は8.5mと威風堂堂とした風格を
醸し出しているようです。
イメージ 11
夫婦杉の先は、坂道の両側に杉の巨木が立ち並び、
熊野古道らしさが漂ってきます。
イメージ 12
中辺路最後の多富気王子跡があります。
中世には王子の名は見られず、江戸時代の地誌類に「若一王子」
「児宮(ちごのみや)」との記載が残され、社殿もありました。
社殿は、明治10年(1877)に那智大社への参道の上部に遷されました。
イメージ 13
現在は王子跡の石碑と庚申塚のみが残されています。
イメージ 14
王子跡の先に樹齢約800年の楠の大樹が痛々しい姿で立っています。
根に人が入れそうな大きな空洞があります。
イメージ 15
樹高約30m、幹周約8.57mあり、幹の先から新しい枝を伸ばし、
たくましさを感じさせています。
イメージ 16
大門坂の両側には、約200本の杉が茂り、和歌山県の天然記念物に
指定されています。
また、大門坂は「日本の道100選」にも選定されています。
イメージ 17
十一文関跡
昔、通行税を徴収した所とありますが、今はただベンチが置かれているだけです。
一文は、今の貨幣価値に換算すると6~20円と時代によって変わるそうです。
イメージ 18
唐斗石
杉の巨木の根本付近にある苔むした石ですが詳細は不明です。
イメージ 19
坂を登り切って右に折れると、「晴明橋の石材」が通路に埋め込まれています。
かって、花山天皇にお供した阿部晴明がこの近くに庵を結び、庵は晴明堂、
庵に近い橋は晴明橋と呼ばれていました。
昭和45年の駐車場建設に伴い、石材がここに移されました。
イメージ 20
石段を上って那智大社・青岸渡寺の参道へと向かいます。
続く

青岸渡寺・熊野那智大社及び飛瀧神社

$
0
0
青岸渡寺熊野那智大社及び飛瀧神社の詳細は前回の記事を参照してください。
今回は前回の増補版です。
イメージ 1
青岸渡寺・熊野那智大社への参道の石段を上ります。
イメージ 2
那智大社一の鳥居
イメージ 3
一の鳥居が建つ傍らに児宮多富気王子神社があります。
江戸時代、多富気王子跡にあった社殿が明治10年(1877)に現在地に遷されました。
イメージ 4
イメージ 5
狛犬
イメージ 6
二の鳥居
イメージ 7
イメージ 8
イメージ 9
イメージ 10
イメージ 11
当日、那智大社では権現講祭が斎行されていました。
宮司により神道護摩の焚き上げがあると解説されていましたが、
斎場は別の場所のようです。
青葉に火が付けれ、煙によって清められる儀式のようです。
イメージ 12
前回、見つけることができなかった烏石は若宮の前にありました。
若宮には天照大神が祀られ、天照大神が遣わした八咫烏は、
神武天皇を大和まで道案内した後、この地に戻り石に姿を変え
休んでいると伝わっています。
イメージ 13
日本一ジャンボなおみくじ。
これで大吉が出れば...と期待していたものの...

青岸渡寺へ移ります。
イメージ 14
本堂内にある日本一の大鰐口。
天正18年(1590)に豊臣秀吉によって本堂が再建された際に、
寄進された直径1.4m、重量450kgの大鰐口。
イメージ 15
役行者像
熊野から吉野にいたる大峰山系は、修験道の開祖と仰がれる
役行者(えんのぎょうじゃ、役小角)が開いた修行の場であり、
数多くある霊山の中心とされています。
修験の語源は「修行して迷いを除き、験徳をあらわす」ことから来ています。
修験者は山に伏して修行するところから「山伏」とも呼ばれています。
修験道の祖とされる役行者は、7世紀末から8世紀初め頃実在した呪術師です。
文武天皇3年(699)に、妖術をつかって民衆をまどわしていると、弟子の
韓国広足(からくにのひろたり)から訴えられたため、伊豆に流刑となりました。
イメージ 16
 賓頭盧 頗羅堕 (びんずる はらだ)像。
サンスクリット語ピンドーラ・バーラドヴァージャを漢字で音写したものです。
賓頭盧尊者像の方が一般的です。
賓頭盧 頗羅堕は、釈迦の弟子十六羅漢の一人で、説法は他の異論反論を許さず
ライオンのようであったため獅子吼第一といわれるようになりました。
本堂前や外陣(げじん)、回廊に安置されることが多く、江戸時代の中頃から
自分の病んでいる所と同じ場所を撫でると、病気や怪我が回復すると
信仰されるようになりました。
イメージ 17
本堂脇に大きく枝を伸ばして茂るイヌグスの大樹は、和歌山県の天然記念物に
指定されています。
イヌグスは、タブの木とも呼ばれ、葉は線香の材料になります。
イメージ 18
宝篋印塔は、鎌倉時代の元亨2年(1322)の銘があり、
国の重要文化財に指定されています。
イメージ 19
境内の那智の滝展望台から尊勝院が望めます。
尊勝院へ下ります。
イメージ 20
尊勝院は、かっては飛瀧権現(ひろうごんげん=那智滝)を管理していた
那智山執行職が代々にわたり居住した僧坊であったと伝わります。
中世以降は、皇族や貴族などが熊野を詣でた際の宿泊所となりました。
現在の建物は、江戸時代初期に再建されたものと思われ、
和歌山県の文化財に指定されています。
尊勝院には、那智山を開山した裸形上人像と尊勝院仏頂如来像が安置されています。
仏頂尊とは、如来の頭頂部にある盛り上がりを独立した仏として
神格化したものをさし、一般的には菩薩と同じ姿で表されていますが、
如来の姿をしたものもあります。
真理の体得者である如来にはさまざまな身体的特徴があり、
中でも頭頂部には特に神秘的な力が宿るとされました。
これが仏頂尊で、如来の優れた頭脳、人々を救済する知性を神格化したもの
とも解釈されます。
イメージ 21
尊勝院の横から三重塔へ向かいます。
前回は、日が西に傾き、光のバランスが悪かったのですが、
今回は人物が一人入ってしまいました。
那智大社の権現講祭で時間を費やしてしまったので、滝前バス停まで
急がなければなりません。
イメージ 22
那智の滝へと下る途中に「伏し拝み」と呼ばれる那智の滝の遥拝所があります。
毎年7月14日に行われる那智の火祭りでは、
扇立て神事が行われる聖地でもあります。
石垣と町石、建物跡の礎石が残されています。
イメージ 23
「伏し拝み」から下方向に残されている鎌倉積みの石段を下ります。
イメージ 24
この石段を下ってきて、滝前発11:06のバスで那智駅へ向かいます。
続く


浜の宮王子跡及び補陀洛山寺(ふだらくさんじ)

$
0
0
イメージ 1
11:22に那智駅に到着し、熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)へ
向かいます。
駅から熊野三所大神社まで徒歩約3分の距離です。
イメージ 2
ここは浜の宮王子跡とされ、かっては若宮の社殿と五輪塔があったのですが、
宝永(1704~1710)の津波で流失しました。
浜の宮王子はかって、渚宮王子、錦浦王子とも呼ばれ、那智山を参拝する前に
潮垢離を行い、身を清める場所でもありました。
境内の森は、「渚の森」と呼ばれ、和歌にも詠まれた名勝の森でした。
イメージ 3
現在でも「夫婦樟」呼ばれる樹齢約800年の樟の大樹が残ってはいますが、
当時の面影はなくなってしまったようです。
イメージ 4
境内には、「神武天皇頓宮跡」の石碑も建っています。
石碑の前に置かれている丸い石は「力だめしの石」でしょうか?
古代の玉石信仰「丸石神」の石ともいわれ、中世以降は石を持ち上げて、
その重い軽いで願い事の占いをし、また力くらべをした石とされています。
イメージ 5
イメージ 6
古来、熊野三所大神社と補陀洛山寺が神前仏前の供え水を汲んだ井戸、
「閼伽の井(あかのい)」がありました。
現在、その井戸がどこにあるのか不明ですが、「潮垢離を取ったあと、
真水で禊をする井戸だった」との思いを込めて手水を使いました。
イメージ 7
割拝殿でしょうか?
本殿へ向かいます。
イメージ 8
熊野三所大神社は、古くから熊野那智大社の末社で、
夫須美大神・家津美御子大神・速玉大神を主祭神とし、
主祭神像三躯は重要文化財に指定されています。
イメージ 9
イメージ 10
本殿の右側に丹敷戸畔命(にしきとべのみこと)が祀られた石の祠があり、
地主の神とされています。
丹敷戸畔命は、『日本書紀』神武天皇の東征に登場する人物です。
「戸畔」は、女酋長のことを意味し、神武天皇が進軍した熊野荒坂津
(またの名を丹敷浦)の女酋長だったと推測されています。
神武天皇が丹敷戸畔を滅ぼしたとき、「神が毒気を吐いて人々を萎えさせた。
このため皇軍はまた振るわなかった。」と記載されています。
また、天皇が丹敷戸畔を討った際に手に付いた血を洗ったのが、
新宮市の御手洗(みたらい)海岸だとされています。
イメージ 11
イメージ 12
本殿の左側は三狐神(さんこじん)が祀られ、食物の神とされています。
三狐神とは、稲荷神で、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に
「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、
あるいは眷属に収まったと考えられています。
イメージ 13
熊野三所大神社の隣に補陀洛山寺(ふだらくさんじ)があります。
補陀落とはサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳で、
『華厳経』ではインドの南端に位置するとされています。
補陀洛山寺は、仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人に
よって開山されたと伝わります。
江戸時代まで那智七本願の一角として大伽藍を有していましたが、
文化5年(1808)の台風により主要な堂塔は全て滅失しました。
イメージ 14
イメージ 15
現在の本堂は、平成2年(1990)に再建されたものです。
イメージ 16
本尊は、平安時代後期作、像高172cmの木造・十一面千手千眼観世音菩薩立像で、
国の重要文化財に指定されています。
また、明治初年、那智山で神仏分離が行われ、那智山の仏像仏具類は、
この補陀洛山寺に移されたそうです。
イメージ 17
境内には、補陀落渡海で使われたであろう船を模したものが展示されています。
中世日本では、遥か南洋上に「補陀落」が存在すると信じられ、
「補陀落」を目指して船出しました。
屋形の四方には、「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を
表す鳥居が建てられています。
屋形に人が入ると、扉は塞がれ、釘で固定されたそうです。
白帆を上げ、伴船に沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後は、
ただ漂流するだけでした。
戦国時代になると、熊野三山への参詣者が減少したことから、
渡海が勧進の手段として使われたようで、補陀洛山寺の住職は
60歳くらいになると、渡海する慣わしになっていたようです。
その年を過ぎても渡海しない場合は信者に後ろ指を指されたといいます。
再び陸に戻ることが許されなかったのですが、戦国時代、金光坊という僧が
屋形から脱出して付近の島に上陸しました。
金光坊は捕えられ、海に投げ込まれるという事件が発生しました。
金光坊(こんこぶ)島と呼ばれ、今も那智浦沖にその島はあります。
井上靖の小説『補陀洛渡海記』の題材にもなったこの事件の影響で、
江戸時代には住職などの遺体を渡海船に載せて水葬するという形に
変化したようです。
イメージ 18
補陀洛山寺を出て那智山への県道沿いに「振分石」が建っています。
紀伊半島の西側を海沿いに進む大辺路、紀伊半島の東側を海沿いに南下する
伊勢路、そして田辺から本宮大社、那智山、那智を結ぶ中辺路の分岐点を示す
道標です。
江戸時代に、庶民が主に伊勢神宮への参拝をすませ、速玉大社に詣でた後、
那智大社・熊野大社をめざす道標になりました。
那智発11:46の普通列車で串本へ向かいます。
続く

潮岬

$
0
0
イメージ 1
イメージ 2
12:42に串本駅に着きました。
駅にある観光協会で電動アシストのレンタサイクルを2千円で借り、
本州最南端の潮岬を周遊します。
予定時間は1時間で、次に橋杭岩往復40分を計画しました。
電動自転車は、思っていたよりも楽です。
結構な坂道も、普通にペダルをこぐ感覚で登れてしまいます。
京都市内に住んでいると、海を見る機会が少ないので、海を見ながら自転車で
のんびり走るのは気持ちが癒されます。
観光協会では西入口から周遊する方が楽だと、アドバイスを受けたのですが、
道を間違え東入口から入ってしまったようです。
最初に目を引かれたのが、石畳の海岸でした。
イメージ 3
船が行き交う海峡を...しかし、船がぼけてしまったのが残念です。
イメージ 4
潮岬まで6kmの看板。
イメージ 5
やがて串本大橋が見えてきますが、大島に渡る余裕なんて、勿論ありません。
イメージ 6
岩がゴツゴツとした海岸線が続きます。
イメージ 7
鳥居が見えましたので、立ち寄ってみました。
イメージ 8
朝貴神社でしょうか?
イメージ 9
拝所の両側に大きな貝殻が置かれています。
イメージ 10
本殿は小さいながらも立派な彫刻が施されています。
イメージ 11
神社を周ると海に出ました。
しばらく、海岸の景色に見とれていました。
イメージ 12
「あの先に潮岬があるのか」と思っていた所は、実は出雲崎でした。
イメージ 13
左側にはカタツムリのような小山があります。
イメージ 14
周遊道路は坂道になり、高度を上げていきますが、電動自転車は快適です。
イメージ 15
本州最南端、潮岬です。
イメージ 16
展望台があります。
イメージ 17
展望台からの景色です。
「太陽の出て没るまで青岬」と山口誓子の句にあるように、
日の出から日没までこの岬で見ることができます。
イメージ 18
潮岬観光タワーの手前は芝生が拡がっているのですが、
もう少し暖かくならないと緑色に育たないようです。
かって海軍の望楼が置かれていたことから「望楼の芝」と呼ばれています。
イメージ 19
右側に潮岬灯台が見えます。
灯台へ向かいます。
イメージ 20
潮岬灯台の入口前に、潮御崎神社(しおのみさきじんじゃ)の石標が建っています。
灯台より神社の方が気になって行ってみました。
イメージ 21
イメージ 22
参道は、少し下っています。
イメージ 23
日本書紀に「少彦名命(すくなひこなのみこと)が国造りを終えて、
熊野の御から常世の国へ渡っていった。」との記述がみられ、
「熊野の御」とは潮岬だと考えられています。
潮御崎神社は、景行天皇28年(98)、御崎の「静之窟」内に少彦名命を
勧請したのが始りとされています。
少彦名命は、大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って
波の彼方より来訪し、多くの山や丘を造ったとされています。
その後、潮崎安磨「静之峯」に遷座したとされ、貞観12年(871)に、
潮崎安守はさらに「潮見の端」へ遷座したと伝わります。
江戸時代は、御崎大明神社とか御崎明神といわれ、また周参見(すさみ)から
串本町の下田原に至る18ヵ浦の総産土神となり、本地仏に観音菩薩を祀った
ことから、御崎観音とも称されました。
明治初年(1868)、社名を潮御崎神社に改称、同2年、境内地を灯台建設のために
旧社地といわれる現在の地、静之峰に遷宮されました。
明治31年に社殿が改築され、昭和58年に大修理が施工されました。
イメージ 24
神社から「潮岬の鯨山見」へ向かいます。
イメージ 25
イメージ 26
両側が切り立った狭い背の道を進みます。
イメージ 27
「潮岬の鯨山見」からの景色。
イメージ 28
灯台を見ます。
イメージ 29
周遊道路の西出口に向かって下ります。
イメージ 30
灯台が遠くなりました。
潮岬周遊で時間を費やしてしまい、橋杭岩往復の時間が無くなってしまいました。
14:34発の普通列車で紀伊田辺に向かい、紀伊田辺駅で御坊行に乗換え、
18:37にようやく和歌山駅に着き、18:39発の紀州路快速で大阪へ、
大阪から20:23発の快速で21:06に京都に着きました。
残った最後の青春18きっぷを使い、再び和歌山に向かいます。
続く

紀三井寺-その1

$
0
0
イメージ 1
熊野三山を巡った時のように、5:43京都駅発の快速で新大阪に行き、
新大阪発6:15の紀州路快速湯浅行で紀三井寺へ行きました。
7:58にJR紀三井寺駅に着き、駅前から南方向に進み、国道42号線と合流する所を
左折すると、「こころの灯台・新仏殿」が正面に見えてきます。
イメージ 2
参道脇の土産物店などは、ほとんどまだ開店前です。
駅から歩いて約10分で楼門前に到着します。
イメージ 3
楼門は、室町時代の永正6年(1509)に再建されたもので、国の重要文化財に
指定されています。
楼門には金剛力士像が安置されています。
紀三井寺は通称で、「紀三井山・金剛宝寺護国院」が正式名称です。
イメージ 4
イメージ 5
門前で参拝料200円を納め、門をくぐると、左側に「七鈴観音」が祀られています。
イメージ 6
イメージ 7
右側には聖徳太子と地蔵菩薩が祀られた御堂があります。
イメージ 8
門をくぐった先は、結構急な231段の石段が続きます。
この坂道は、結縁坂(けちえんざか)と呼ばれています。
江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は若い頃、紀州に住んでいました。
ある日、母を背負って紀三井寺を参詣したのですが、
この坂道で草履の鼻緒が切れてしまいました。
困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、
和歌浦湾にある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。
これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、
二人は結ばれました。
後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、
蜜柑と材木を江戸へ送って富を築いたとされています。
紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、
それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになりました。
イメージ 9
石段の途中、段になった所の左側に「波切不動明王祈祷所」があります。
イメージ 10
右側には、「清浄水」と呼ばれる湧水が流れ落ちています。
「紀三井寺」と呼ばれる由縁は、「紀州にある、三つの井戸のあるお寺」からと
伝わり、三つの井戸の水は「三井水」と呼ばれています。
「三井水」の一つである「清浄水」には伝説が残されています。
『開山為光上人が寺を開いて間もなく、大般若経六百巻を写経し終った時、
上人の前に竜宮の乙姫が現れ、上人に竜宮での説法を乞うて中ノ瀧
 清浄水に没したとある。』
イメージ 11
清浄水の周辺には、松尾芭蕉の句碑と、それを囲む様に
後代紀州の俳人達の句碑が建てられています。
イメージ 12
清浄水から石段を上った左側に「白瀧大明神」が祀られた祠があります。
祠の背後には、「応同樹」と呼ばれるタブの木が葉を茂らせています。
この木は開山為光(いこう)上人が竜宮へ説法に行かれ、龍神からお礼に戴いた
七種の宝物の内の一つと伝わります。
病に応じて薬となると云われる霊木とされています。
イメージ 13
右側には「三井水」の一つ「吉祥水」の井戸がありますが、
覆屋に収められています。
「吉祥水」は昭和初期、附近に土砂崩壊が起り、その後も相次ぐ崩壊により
水筋も変り、水桶等施設も理没して荒廃し、境界も定かならぬ有様となりました。
「瀧のぼりの清水」として親しまれてきた吉祥水を後世に残そうと保存会が
設立され、近年地元の方々や有志によって復興されました。
イメージ 14
イメージ 15
「吉祥水」の井戸から上った所に、「身代わり大師」と名付けられた
弘法大師の霊場があります。
イメージ 16
健脚や身体健全を祈願して小さなわらじが奉納されています。
イメージ 17
「吉祥水」の先は「女厄除坂」と名付けられ、33段の石段が続きます。
イメージ 18
「女厄除坂」を上った左側に、大日如来・弘法大師・一願不動明王が祀られた
御堂があります。
イメージ 19
御堂から先の石段は、「男厄除坂」と名付けられ42段続きます。
イメージ 20
「男厄除坂」を上った左側の桜の木、4月初旬になりますが満開は
まだ先のようです。
東京では既に満開だというのに、紀三井寺は、早咲き桜で有名だったのでは?
と疑ってしまうような光景です。
イメージ 21
右に進むと、「こころの灯台・新仏殿」を仰ぎ見ることができます。
イメージ 22
「還暦厄除坂」と名付けられた最後の60段の石段を上り、六角堂へ向かいます。
続く

紀三井寺-その2

$
0
0

イメージ 1
231段の石段を上って来て、正面に建っているのが六角堂です。
六角堂は、江戸時代の寛延年間(1748~1751)に建立され、
西国三十三所の各本尊が安置されています。
イメージ 2
六角堂の右側、境内の南端に2008年に落慶法要が営まれた、
高さ33mの「こころの灯台・新仏殿」があります。
「迷い多き時代の灯台に」という住職の願いが込められ、チベットのポタラ宮
イメージして建築されたそうです。
ポタラとは、観音浄土の地である補陀落のサンスクリット語名
「ポータラカ」に由来しています。
イメージ 3
堂内には、十一面観音像と千手観音像を融合した総高11mの木造仏、
「大観音像」が祀られています。
全身漆塗りの金箔張りで、十一面の頭上面と42本の手を有した
日本最大の木造観音像です。
平安や鎌倉時代の人々が、新しい仏像に讃仰(さんごう)した気持ちが、
今、味わえたような気がします。
日本を代表する仏師、松本明慶師によって製作されました。
イメージ 4
「こころの灯台・新仏殿」の前に「しあわせ地蔵尊」が祀られています。
イメージ 5
イメージ 6
六角堂の左側に鐘楼があります。
鐘楼は、 安土桃山時代の天正16年(1588)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
最近修復されたのでしょうか?朱の色が鮮やかです。
イメージ 7
鐘楼の横には「幸福観音」と命名された像が建っています。
イメージ 8
観音像の横には、弘法大師が祀られた大師堂がありますが、詳細は不明です。
イメージ 9
本堂前の桜は朝日を浴びて、開花を急いでいるようです。
イメージ 10
多宝塔を仰ぎ見ると、まだ桜の花の数が少なく、少し寂しい様な気がします。
イメージ 11
本堂の手前に「ごくらく橋」が架かり、その奥に如意輪観音像が祀られています。
天界道に迷う人々を救う観音菩薩とされ、「如意宝珠」と「法輪」の二つを
手に持ち、また、六本の手で六道すべてに救いの手を
差し伸べるともいわれています。
「如意宝珠」とは意のままに智慧や財宝、福徳もたらす如意宝珠という
宝の珠のことで、「法輪」は煩悩を打ち砕く法輪を指しています。
イメージ 12
イメージ 13
イメージ 14
イメージ 15
イメージ 16
イメージ 17
イメージ 31
紀三井寺は寺伝によると、奈良時代の宝亀元年(770)に唐より渡来した
僧の為光(いこう)によって開基されたと伝わります。
為光が、日本各地を行脚していた時、名草山山頂から一筋の光が
発せられているのを感じました。
光の元をたどって名草山に登り、そこで金色の千手観音を感得しました。
為光は自ら十一面観音像を彫刻し、胎内仏としてその金色千手観音像を奉納し、
一宇を建立して安置したのが紀三井寺の始まりとされています。

現在の本堂は、江戸時代の宝歴9年(1759)に建立されたもので、
和歌山県の重要文化財に指定されています。
当日は、本堂の内陣が特別公開されていましたが、撮影は禁止されています。

本尊の十一面観世音菩薩と千手観世音菩薩(ともに平安時代作・重文)は
秘仏とされ、50年に一度開扉されます。
本堂の正面に御前立の十一面観音菩薩立像と千手観音菩薩立像
(ともに室町時代作)が安置されています。
右側に増長天、左側に持国天(ともに江戸時代作)が安置されています。
右脇に藤原~鎌倉時代作の薬師如来像、左脇に阿弥陀如来像
(頭部・平安時代作)を中尊に右に虚空菩薩像、左に弥勒菩薩像
(ともに室町時代作)が安置されています。
イメージ 18
本堂内から「霊宝館」へと下ります。
扉を開けると、正面に大黒さんと恵比寿さんが笑顔で出迎えてくれますが、
すぐ下り階段になっていますので注意が必要です。
イメージ 19
イメージ 20
階下には「十界曼荼羅図」、「玉津嶋神社・加代姫図」などが展示されています。
イメージ 21
更にその下の階は、薄暗く、西国三十三所の各本尊が小さな明かりの中に
安置されています。
周囲をおびただしい杓子で囲われ、さらにいくつか山積みされています。
イメージ 22
イメージ 23
不動明王像、救世観音像などが安置されています。
イメージ 24
イメージ 25
本堂を出て、横の石段を上ります。
イメージ 26
左側に開山堂がありますが、詳細は不明です。
イメージ 27
右側に多宝塔が建っています。
多宝塔は、室町時代の文安6年(1449)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
嘉吉元年(1441)にそれまであった仏塔が風害で倒壊したため、
多宝塔が建立されました。
堂内には、室町中期様式の五智如来が安置されています。
イメージ 28
多宝塔の左側に「春子稲荷」を祀った小さな祠があります。
戦国時代の天正13年(1585)、織田信長、羽柴秀吉の紀州征伐軍が、根来寺、
粉河寺などを焼き討ちし、紀三井寺に迫ってきました。
当山観音堂神官の娘・春子は観音堂に籠もって三日三晩一心不乱に祈り、
白狐に変化して秀吉の元に飛び込んでいきました。
その後、春子は一枚の書状を持ってお堂に倒れていました。
書状には「紀三井寺だけは攻撃しない」という一文が書かれていた、
という伝承が残され、以来、人々は厄除けとして春子稲荷を祀ったとされています。
この紀州攻めにより、49町を有した寺領が没収されてしまったそうです。
イメージ 29
春子稲荷の左側、「三社権現」は工事中で、幕で覆われていて、詳細は不明です。
イメージ 30
この高台から和歌浦が一望できます。
和歌浦へ向かうため、9:31のバスに間に合うように急いで下山します。
続く。

和歌浦-その1(玉津嶋神社)

$
0
0
イメージ 1
紀三井寺のバス停に、ぎりぎり9:31のバスに間に合うように到着したのですが、
バスは来ません。
もう行ってしまったのでしょうか...?次のバスは1時間後です。
10分ほど待っていましたが和歌浦まで歩いても30分余りの距離ですので
歩くことにしました。
和歌川に架かる旭橋を渡り、和歌浦を望みます。
和歌浦の景勝は、この和歌川が運ぶ土砂によって造られ、徐々に海を退けて
現在の景観に変えていったのもこの川によるもかもしれません。
イメージ 2
国道42号線の突き当りを左に折れると玉津嶋神社があります。
東参道を進んだ所に金高稲荷社があります。
イメージ 3
鳥居の左側に聖武天皇行幸に随行した藤原卿(ふじわらのまえつきみ)の歌碑が
建てられています。
「玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため」
万葉の時代の玉津島六山(妹背山(いもせやま)、鏡山、奠供山(てんぐやま)、
雲蓋山(うんかいやま)、妙見山、船頭山)は、潮が引くと陸続きになり、
満潮時には海に浮かぶ島となったといわれています。
和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていました。
聖武天皇が行幸の際に、お供をしていた山部赤人が『万葉集』巻六の919番歌に、「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」と
詠んでいます。
「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされています。
また、『続日本紀』によれば、一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていた
のですが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と
改めたとも記載されています。
イメージ 4
玉津嶋神社の鳥居をくぐります。
朱の色が鮮やかです。
イメージ 5
正面に拝殿があります。
イメージ 6
拝殿の前に建つ石灯籠は、紀州徳川家の祖・徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)に
よって寄進されたものを、平成2年に復元されました。

本殿は、背後の奠供山(てんぐやま)の山肌に造営され、木立に隠れて
見ることもできません。
玉津嶋神社は、社伝によれば、神功皇后が紀伊半島に進軍した際、
玉津島神(稚日女尊・わかひるめのみこと)の加護を受けたことから、
その分霊を祀ったのが始まりとされています。
そして、神功皇后も息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)として
祀られています。
また、『玉津嶋には社一(ひとつ)もなし。鳥居もなし。只満々たる海の
はた(側)に古松一本横たはれり。是を玉津嶋の垂迹のしるしとするなり。』
との記述から玉津島そのものが神代以前より、神の降臨する
依代(よりどころ)として、あるいは神そのものとして祀られていた
と考えられています。
奈良時代の神亀(じんき)元年(724)、聖武天皇の玉津島行幸で初めて
文献に登場します。
聖武天皇は、この地の風致を守るため守戸(しゅこ)を置き、玉津嶋と明光浦の
霊を祀る勅命を発しました。
玉津嶋神社では、明光浦霊(あかのうらのみたま)として合祀されています。
仁和2年(886)のある夜、光孝天皇の夢枕に、衣通姫(そとおりひめ)が現れ、
「立ちかへり またも此の世に 跡とめむ 名もおもしろき 和歌の浦波」と
詠んで姿を消しました。
天皇はおおいに感じ入り、和歌浦に源隆行を遣わし、姫をこの社に祀った
と伝わります。
その後の変遷は不明ですが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、
紀伊国和歌山37万6千石を与えられた浅野幸長により社殿の再興が図られました。
その後、徳川頼宣により本殿などの本格的な整備がなされました。
現在の社殿は、平成4年に修復されたものです。
イメージ 7
拝殿から右側へと進むと、「仁井田好古撰文碑(にいだよしふるせんぶんひ)」
が建っています。
『紀伊続風土記』を編纂した仁井田好古が、紀州の史跡を顕彰するために
碑文を作成した碑の一つです。
この碑は、天保3年(1832)に奠供山上に拝所を建設し「望祀の礼」を
復旧された際に、山上に建立された「奠供山碑」を現在地に移されたものです。
奠供山上では、聖武天皇が春秋二回、神々に供物を捧げ神事を行ったと伝わり、
奠供には新寺に用いる際木の意味があるそうです。
イメージ 8
奥に進んで行くと奠供山への登り口へと続きますが、向かいにある鏡山の方が
景色がいいだろうと勝手に判断して登らずに戻りました。
イメージ 9
拝殿から左へ進むと、「鶴松」と名付けられた根上リ松が展示されています。
「根上リ松」とは、根の部分が地表に浮き上がった珍しい松の木のことで、
かって和歌山市高松に生えていたものが、大正10年に根の部分をここに移され
保存されています。
イメージ 10
「根上リ松」の奥には、山部赤人が詠んだ万葉集の歌碑が建てられています。
右側「やすみしし わご大君の 常宮(とこみや)と 仕へ奉(まつ)れる
 雑賀野(さひかの)ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば
 白波騒き 潮干(しおひ)れば 玉藻(たまも)刈りつつ 神代(かみよ)
より 然(しか)そ貴(たふと)き 玉津島山」
(やすみしし)我が大君が万代の宮として造営された雑賀野の離宮から、
後方に見える沖の島の清い渚に、風が吹くと白波が立ち、潮が引くといつも
玉藻を刈っていて、神代の昔からそのように尊いのだ、玉津島山は。
左側「沖つ島 荒磯(ありそ)の玉藻 潮干満ち い隠り行かば 思ほえむかも」
沖つ島の荒磯の玉藻が、潮が満ちてきて隠れてしまったならば、
思い遣られることだろうなあ。
「若の浦 潮満ち来れば 潟(かた)をなみ 葦辺(あしへ)をさして
 鶴(たづ)鳴き渡る」
若の浦に潮が満ちてくると、干潟がないので、葦辺をめざして鶴のむれが
鳴き渡る
イメージ 11
鳥居を出て鏡山へは5分余りで登ることができます。
天橋立を思わせる片男波
イメージ 12
不老橋
イメージ 13
今も唯一島で残っている妹背山
風光明媚と詠われた和歌浦の今の姿です。

下山して妹背山へ向かいます。
続く
Viewing all 497 articles
Browse latest View live




Latest Images