四天王寺から谷町筋を少し北上し、「子育地蔵尊」の石標が建っている所を
西側に入ると、上町台地の端に突き当たります。
門の東側に、本堂の建設予定地がありますが、
まだ建築が始まるような気配は感じられませんでした。
墓地の端の方に、鐘が釣られ、その前方に舞台があります。
墓地の中に「子育地蔵尊」が祀られているようですが、
墓地の中に「子育地蔵尊」が祀られているようですが、
墓地内へは立ち入らなかったので画像はありません。
この地蔵尊には伝承が残されています。
「昔、夜ごとに池に浮かび上がる霊木があり、
この地蔵尊には伝承が残されています。
「昔、夜ごとに池に浮かび上がる霊木があり、
その木から赤子の鳴き声が聞こえます。
ある人が、これこそ衆生を加護するために、この世に現れた地蔵尊だとして、
ある人が、これこそ衆生を加護するために、この世に現れた地蔵尊だとして、
その霊木で地蔵尊像を刻み、清水寺に安置した」と伝えられています。
石段を下り、仮本堂へと向かいます。
清水寺は、元は有栖寺(うすじ)と称し、摂州大江岸と呼ばれた
清水寺は、元は有栖寺(うすじ)と称し、摂州大江岸と呼ばれた
北・西・南の三方が崖になった精舎神窟の跡に創建されました。
仮本堂に掲げられた縁起書には、開山や四天王寺との関係についての
仮本堂に掲げられた縁起書には、開山や四天王寺との関係についての
詳細が省略されていますので不明です。
寛永17年(1640)に延海阿闍梨(えんかいあじゃり)により中興されました。
延海は観世音菩薩の御告げを受けて、京都の清水寺を模した舞台造の本堂を建立し、本尊として京都の清水寺から迎えた千手観音像を安置しました。
このことから、新・清水寺と称されるようになりました。
この観音像は、聖徳太子作との伝承がありました。
現在は、正式には「有栖山清光院清水寺(ありすさん せいこういん
寛永17年(1640)に延海阿闍梨(えんかいあじゃり)により中興されました。
延海は観世音菩薩の御告げを受けて、京都の清水寺を模した舞台造の本堂を建立し、本尊として京都の清水寺から迎えた千手観音像を安置しました。
このことから、新・清水寺と称されるようになりました。
この観音像は、聖徳太子作との伝承がありました。
現在は、正式には「有栖山清光院清水寺(ありすさん せいこういん
きよみずでら)」と称し、和宗総本山・四天王寺支院となっています。
仮本堂の1階が納経所で、新西国三十三箇所客番、近畿三十六不動尊2番、
仮本堂の1階が納経所で、新西国三十三箇所客番、近畿三十六不動尊2番、
摂津国八十八箇所26番の札所になっています。
2階には現在の本尊である十一面千手観世音菩薩、脇侍として阿弥陀如来像と
2階には現在の本尊である十一面千手観世音菩薩、脇侍として阿弥陀如来像と
勢至菩薩像が安置されています。
背後には胎蔵界と金剛界の曼荼羅図が奉安されています。
三尊の左側に安置されているのが風天尊でしょうか?
風天尊は、仏教の護法善神である十二天の一尊であり、風を神格化したもので、
背後には胎蔵界と金剛界の曼荼羅図が奉安されています。
三尊の左側に安置されているのが風天尊でしょうか?
風天尊は、仏教の護法善神である十二天の一尊であり、風を神格化したもので、
西北の守護神とされています。
初めて出会って、よく解らずに帰ってしまい、
初めて出会って、よく解らずに帰ってしまい、
もう一度じっくりと拝みたいと考えています。
また、右の方には役行者像が安置されています。
また、右の方には役行者像が安置されています。
仮本堂から奥の方に進むと、大阪市内唯一の天然の滝である
「玉出の滝」があります。
四天王寺・金堂地下にあると伝えられる青龍池の白石玉出の霊水が、
四天王寺・金堂地下にあると伝えられる青龍池の白石玉出の霊水が、
が地下を通り、300m離れたこの地に滝となって流れ出ているとされています。
大江神社から勝鬘院(しょうまんいん)へ向かいます。
続く
続く